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どうしても「ルール」が公正なものだと思ってしまうので

 ルールがある。どんなものにもすでにそれは決められてしまっている。いつからかはわからない。わかったとしてもそれはもうずっと前で、手が届くはずもなくて、今となってはほとんどの人がそれをどうこうできる状態ではない。
 だからルールは強いのだ。そう思われている以上に、強いものだと思われているし、感じてしまっている。なぜならそれは、全てを決めているからである。様々な状況や状態や原因や結果、利益や不利益、関係性などについて、「もしこうであるならば」を教えてくれるのがルールだからだ。

 そうであるから、私達は自然とルールを強くて固くて絶対的で、そして何より正しいものだと、自分達のためになるものなのだと信じてしまう。ともすればルールは中立的で、平等、公正、公平でいつも誰にでも手を差し伸べられるものなのだと、そのための存在なのだと思いたくなる。
 けれど実際には、ルールとはそんなはずはない。どうしたって偏っている。不平等だし、いつも助けてくれるわけではないし、それどころかルールがあるせいで人々は悲劇に巻き込まれることだってある。

 そうなってしまうのは、ルールが自然発生するものではないからだ。必ず誰かに決められているものがルールである。その誰かの意思がなければ、ルールは生まれない。
 そこには誰かの欲が乗る。こうだったらとか、こうしたいとか、ルールを定める者の考えが入り込む。そうしたい人がルールを作る。大抵の場合、ルールは「作りたいから」作るのだ。それが人間の作り出したものである以上、平等であることはあり得ない。必ず偏る。

 だから間違っても、ルールが自分達のためのものであるのだと思わないことだ。もしくはそれが正しかったり、公正だったりはしないのだと知るべきである。ルールは従わざるをえないものだが、信じるべきものではない。それを信じる時は、それを作った人を信じる時である。そうできないのなら、ルールには常に懐疑的である必要がある。

 そうでなければ私達はいつの間にか「ルールだから」に取り込まれてしまう。それが自分のためにならなくとも、ルールをとにかく信じてしまう。歓迎すべきは公正のはずだ。そうでないことのあるものなど、疑って当然なのである。

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