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短編小説

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#子供

アリ、そして母のお菓子作り

 ゼリーに溺れてアリが死ぬということを、私は知ったのは小学生くらいのことだった。アリは溺れる。昆虫だから顔が埋もれても大丈夫なようだけれど、もがくうちに全身が埋まってしまうともうダメだ。他のアリが異変に気がついて、助けようとするのか溺れるアリに群がる。私はそれをただ見ている。ゼリーは、アリ達にとって、降ってわいた恵みだ。普段はそのようなもの、自然の中にはない。ただひたすらに甘く温かいその糖分の波に、アリ達は誘惑されて、犠牲を出していく。  誕生日に、親にねだって買ってもらっ

繋がりを持つ。何がなんでも生きていく

 どのようにしても、何があっても、何がなんでも生きていくのだという強い覚悟は、きっと自分にはない。精々そこには誰かのためというハリボテの意思と、しかしそれを支えるために必死な自己実現本能と、それらがあるからには仕方がないとどこか他人事に理由を探す本能とがあるだけなのだと思う。  同僚に誘われて夜の店にでかけた帰り道、繁華街から外れたひとけのない高架下にあったダンボールのかたまりを、随分酔っ払った同僚が蹴り飛ばした。営業職の磨き上げられた革靴の硬さにひとたまりもなく、その使い

雨のひとなくした者

 雨の日が憂鬱だと、最初に言い出したのは誰だろう。そのせいで、雨が泣いていることも知らずに、私たちは当たり前のように雨の日を毛嫌いする。  湿気や低気圧や、特別な服装をしなきゃいけないとか、電車が混むとか、傘の忘れ物が多くなるとか、人間側の都合を雨に押し付けて済ませている。でも雨がないと生き物は、それどころかこの地球は行き続けられないのだ。そのことをちゃんと知っている人は、きっとあめを毛嫌いしない。きっと土砂降りの日でも喜んで外に出かけていくだろう。なぜならそれは恵みの雨だ

秋の別れと、しいちゃん。

 しいちゃんは文句ばかり言う子だった。当時、小学生だった私たちクラスの中でもそれは本当に有名なことで、担任の松井先生すら、朝の会や帰りの会でしいちゃんが後ろの方の席でにこりともしないで、何か言いたげに黒板の方を見据えているのを気にして、いつも会の終わりに決まって、「何か質問ある人?」と遠回しな確認をしいちゃんにして、それがないとあからさまにほっとしたような顔をして、いつもより1.5倍くらい大きな声で、解放されたように、「おはようございます」や「さようなら」の号令をかけるのが、

夕焼けの赤鉛筆

 誰もが異質だと思っているが、それを言い出すことが憚られるような場合において、それを異質だと最初に表明した者は「悪」である。その実態は問われない。その実態が「正義」であっても。だから正義は為されない。  石原和也はいじめられていた。そのきっかけは些細なもので、私にとっては突然とでも言うべき始まり方だったにもかかわらず、その火はあっという間に燃え広がった。和也は小学5年生にしては珍しく聡明な子供であり、長身で力も強く、いじめを受ける前は、授業中や学校行事や、登下校中に際して、

サンライズ・シティの悲恋

 「属性」とは、最も恋愛とは関係のない要素である。それは、外側から物事を判断するために必要なものに過ぎない。恋愛に関しては、部外者があれこれと指示したり、律したり、興味を持ったりするために、属性が割り当てられる。だが恋愛は当事者同士の問題だ。  だからそこで完結すべき恋愛という事象にとって、性別や信条や国籍や、その他諸々の属性とやらは、まったく必要のないものであるはずなのだ。  ボクがその綺麗な子を見かけたのは、よく晴れた日に散歩に出かけ、いつものビロードウェイを下っていく

ステラの事件簿①《電子証明書、偽りと成る・壱》

 大人の方が子供より偉い。けれどそれは、大人が大人である時だけだ。世の中には沢山の種類の人間がいて、大人がいて、子供がいる。だからその中には、「大人でない大人」なんていうのがいることも、全く珍しくない。  欧林功学園に通う男子学生の体操着が盗まれた事件――その犯人は未だ捕まらず、学園はセキュリティを強化するという形で、関係者からの非難に応えざるを得なかった。学園に通う1人学生、星にとってみても、わざわざセキュリティカードなどを持たされたり、警備員に挨拶せねばならなくなったり

ステラの事件簿⓪《体操着、鳥のように舞う》

 大人の方が子供より偉いなんていうのは当たり前の話だが、時として子供の方が大人を従わせることができることがある。それは第一に大人に余裕がある時、そして第二に、大人に余裕がない時だ。  「だ、誰にも言わないで! 違うの! これはちょっとした手違いで……」  「わかりました。じゃあ先生、僕のお願いも聞いてもらえますか?」  「で、できることなら……」  リビングルーム。ソファに腰かけた男の子は、傍らの大きな鞄を見やった。その中身を改めて確認すると、なすすべなく床にへたり込む女性