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短編小説

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#男女

虫のような女との結婚の話

「だからね、結婚なんて誰にだってできるワケよ」  綺麗な赤いネイル。虫の四肢のように細い人差し指と親指でつままれたスプーンをガチリとカップの縁にぶつけて、公子さんは最後の紅茶を一気に飲み干した。  よくあるチェーン店の喫茶店だった。平日だからか、他に客は少ない。夕方で窓から差し込む光の角度が変わり、仮面のように、彼女の顔には邪悪な陰影が貼り付けられている。私は思わずしかめた顔を気付かれないように、視線を暮れなずむ外に向けて、「そうですね……」と意味深なため息をついてみせた。

”そういう”バイトと夜も目立つ広告

「でも、世の中の全部って結局はお金じゃん?」  閉店後の掃除を任された、針田望と大池七伊は、パティスリーのイートインスペースを掃除しながら、ダラダラと話をしていた。 「お金じゃねーよ。罰当番だって言ってんだろ」 「だって変でしょ罰とか。ちゃんと連絡してるのにさ」 「せめて3日前によこせよ。シフト出してんだからさ」 「それ、それも納得いかない。たかがバイトなのになんで他のことより優先しなきゃいけないのよ」 「じゃあ辞めりゃいいだろ……」  店は神宮前駅にほど近い、表通り沿いの華

誰かと離れるという、いっそ簡単な手続き

 何かを信じないのなら、いっそ疑うほうがいい。何かを信じないままでは、それは何もしないのと同じだからだ。何もしないよりは、する方がいい。だから、何かを疑うのだ。そのほうが生きていくにはずっとマシだ。  「これで終わりね」とありきたりなセリフを奈美が呟いたのは午前8時。初夏の頃、家から市役所までの10分の道のりに少し汗ばむようになってきた、そんな時だった。大木雄大は、向かいに座るその女性の言葉に無言で頷いた。そのまま、机の上の薄っぺらい紙に目を落とす。それを貰ってきたときは、

新しく買った茶葉と、仕方がないと諦める心

 無気力などと言われるのは心外だ。それも大人から。若者よりよっぽど無気力なのは? まずは自分の心に聞いてみてほしい。ゲームも音楽も小説も、人生だって途中で放り出しかねないのはどっちなのだろう。辛うじて残っているのは仕事だけ。それすら危うくなっているのに。  でも、そんなことを言って大人と対立するのは面倒くさい。ちょっとだって得にならない。なら、口答えするのはやめておこう。  とにかく、心外だけど。 「ちょっと、お皿洗っといてって言ったじゃん」  朝のクミの声は低い。多分、太

サンライズ・シティの悲恋

 「属性」とは、最も恋愛とは関係のない要素である。それは、外側から物事を判断するために必要なものに過ぎない。恋愛に関しては、部外者があれこれと指示したり、律したり、興味を持ったりするために、属性が割り当てられる。だが恋愛は当事者同士の問題だ。  だからそこで完結すべき恋愛という事象にとって、性別や信条や国籍や、その他諸々の属性とやらは、まったく必要のないものであるはずなのだ。  ボクがその綺麗な子を見かけたのは、よく晴れた日に散歩に出かけ、いつものビロードウェイを下っていく