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短編小説

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#仕事

やる気の出ない仕事と、嫌いな人と、好きなもの

 星の形をした風船と、水玉模様の傘と、甘くないカフェラテが嫌いなのだと、彼はガラス張りの如何にもおしゃれな会議室で力説していた。片側の壁には大きなスクリーンがあって、そこには今日の議題の資料が映っている。反対側に皆が座っており、私はそんな彼らをスクリーンの横から見ている。  つまりプレゼンターは私だ。だからそのような雑談はやめて、さっさと進行させてほしい。でも彼の話を誰も止められない。それはいかにも仕事の話に結びつきそうで、あるいは人生の教訓的な何かに繋がりそうで、しかしその

父と母の今と昔

 小学生の時、将来の夢を書けと言われて書いたのは多分、父親の職業だったと思う。それは確か普通の会社員というわけではなかったけれど、それほど希少な職業というわけでもなかった。その頃のことがそんなに曖昧なのは、ちょうど父と母が離婚しようかしまいかと家庭内がそれはもうぎくしゃくしていたからで、正直、小学校高学年までそんな大して意識していなかった父親の職業というものに、せっかく興味が持てるタイミングを逃してしまったのだと、今にしてみれば思う。  父親の職業。そして母親の職業。そのよ

休みの日のラジオコロッケ、そして昼の世界のスマホ

 斎藤椎実(しいみ)が休日に騙されたのは、もう何年も前のことだった。  大手企業に新卒で入社し、厳しい先輩や理不尽なクライアントに付き合い、業績とスキルをめきめき伸ばしていった。3年が過ぎ、とある新規プロジェクトの責任者として大抜擢された椎実は、それを妬んだ同期と、彼らを崇拝する幾人かの後輩、そして色仕掛けや賄賂にほだされた上司達によって、あっさりはしごを外された。  他の数社を巻き込み、会社の重要な転換点となるべきプロジェクトは足りない人員と、いつまでも到達しないクオリテ

100点の仕事は目指さないにしても

「ダメだあいつ、また45点出してきやがった」  依田川課長は先日買ったばかりの高価な椅子の背を思い切り軋ませて、書類を弾き飛ばすようにパソコンデスクの上に放り投げた。押しのけられた書類が逃げ出してデスクの上から落ちていく。その全てがしっかり落ち切ったのを見届けてから、向井はわざとらしくため息をつき、かがみこんで書類をまとめていく。 「悪いな」 「いえ、これが仕事ですから」 「バカ言うな、お前の仕事は経理だろ」 「ごもっとも。ならいいかげん片付けてください、机の上」  まとめ終

地元の聖域

 「お腹が空いた」と感じることが多くなった。そう、彼は思っていた。午後、仕事の都合で都心を離れ、暇な時間に商店街をブラブラ歩く。今日の仕事は楽なものだった。まだ付き合いの浅い取引先の支社へ行き、簡単な会議に出て、そこでの意見をまとめるというもの。  念のため1泊することになっていたが、彼は、取引先の飲みの誘いを断った。まだ、信用に足る相手かどうかが分からない。それを探るための仕事だと思っていたからだ。会議で良く発言する人間はいたが、今のところ、威勢がいいと思えるだけでしかなか

新しく買った茶葉と、仕方がないと諦める心

 無気力などと言われるのは心外だ。それも大人から。若者よりよっぽど無気力なのは? まずは自分の心に聞いてみてほしい。ゲームも音楽も小説も、人生だって途中で放り出しかねないのはどっちなのだろう。辛うじて残っているのは仕事だけ。それすら危うくなっているのに。  でも、そんなことを言って大人と対立するのは面倒くさい。ちょっとだって得にならない。なら、口答えするのはやめておこう。  とにかく、心外だけど。 「ちょっと、お皿洗っといてって言ったじゃん」  朝のクミの声は低い。多分、太

私達はなんとなく一緒にいるのではない

 独りでいることは自由を手に入れることに等しい。なんでも思い通りになり、さじ加減に悩むこともなく、なにより、背負うものが何もない。  けれど、誰かといることは楽しいということも知っている。独りではなせないことも、誰かといるからなせるからこそ、そう思うのだ。その2つがどちらも手に入ったら、それはそれは幸せなことではないのかと、私は時々そう思う。  妻と仲直りをした。  いや、そもそも喧嘩などしていないというのが妻の言い分だったが、明らかに怒っていたのは妻の方だった。私達はどち

砂漠の足跡

 1人でいることと、皆でいることはどちらがいいのだろう。まだ何も知らなかった頃、自分は、誰かと一緒にいる方がなんでも解決できる気がしていた。けれど、1人でいるほうがその解決すべき問題も、1人分で良いはずだ。そういうことから、目を背けてはいけないような気がした。  「……ふう」  ジリジリとした暑さを頭のてっぺんに感じながら、俺は重たくなった足を止めた。途端、足元の砂が、歓迎するかのように両足を沈み込ませていく。少し水分補給をするつもりで立ち止まったが、その程度の休憩でも、も