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第11走者川谷大治「人生は退屈しのぎ」

前回からの続きです。

 前回の隠れた主題は「人生は退屈しのぎ」という重大な問いです。生物は食べることが生活の中心ですが、幸か不幸か、米と小麦を手に入れた私たち人間は食事に時間をそれほどかけなくて済みます。おにぎり1個200カロリーで1時間のウォーキングができるのです。カロリー的には1日に5、6個で生きていけます。しかも短時間でそのエネルギーを摂取できるのです。米や小麦ほど効率のいい食べ物はありません。牛の場合、1日中口を動かしていないと生命を維持できません。朝から夕まで草を食べつづけ、小屋に帰ってきてからも食べたものを戻して口を動かしています。牛の生は食べることなのです。

 魚はどうでしょう。マグロやカツオは生まれて死ぬまで泳ぎ続けます。泳ぐのを止めると呼吸ができなくなるからです。それ故に、彼らにとって生とは泳ぐことなのです。勿論、泳ぎながら食べています。子どもの頃、池で飼っていた金魚や鯉も食べることが彼らの生でした。いつ見ても口をパクパク動かして酸素を取り入れ餌を食べています。よく見ると、異物はスーッと吐いて餌だけを食べます。そして肛門から便を出します。だから、鯉や金魚を飼うのは掃除が大変でした。池を掃除してもすぐに濁るからです。

ところが人間の生は、複雑すぎて、牛や金魚のようにすっきり定義できません。牛や金魚がうらやましい限りです。一方、人間の仲間のゴリラはどうでしょう。ゴリラは1日の半分の12時間は寝ています。起きている間は食べては休息を繰り返します。ウンチは1日に平均6回といいますから、よく食べるんですね。ゴリラの生も食べることです。ゴリラの子どもはそれに遊びが加わり、大人のゴリラは子どもを守るのが仕事になります。

ところが私たち人間は、1日2~3回の食事、それも短時間で済ませるので、1日2食の私の場合、1時間もかからない。1日24時間から睡眠7時間と食事にかける1時間を引くと16時間が自由時間になります。この大切な自由時間の大半を、実は、仕事に回しているのですね、私たちは。そんな社会システムを作り上げてしまったのですね。精神科医の独り言だと思って読んでください、そんなシステムから離れた人たちを病的とか変わり者と裁いて、私たちの下に連れてくるのです。このシステムにも構造論的な問題があるのですが、ここでは論及しないことにします。

私に限って話を進めると、10年前は週に5日は6時に起床し、朝食は摂らないので新聞を読んだ後に職場に向かい、仕事をして帰り着くのが7時。テレビを見ながら夕食を済ませ、8時半から11時までが私の自由時間でした。時には皿洗いを手伝いました。ところが、仕事をしない休日が昨年の10月から、日・月・水と3日間に増えてしまったのです。私の人生は仕事を中心に成り立っていたので、好きな事をしろ、といわれても戸惑うばかりでした。気づいたことは、人生は退屈しのぎ、ということでした。つまり、仕事から離れると、退屈が腕組して私を待っていたのです。

 退屈とは?

スピノザ『エチカ』には退屈という感情については何も書かれていません。想像するにスピノザは忙しかったので関心事ではなかったのでしょうね。レンズ磨きで生計を立て、独身でしたので、残りの時間は哲学に時間を当てました。慢性の肺病、多分に肺結核、を患っていたので、残り少ない人生を退屈する暇はなかったのでしょうね。スピノザは44歳で亡くなっています。もしスピノザが80歳まで長生きしていたら、きっと、老後の幸せについて哲学していたと想像します。残念なことです。

日本人にベクトルを向けます。江戸時代の平均寿命は35~40歳程度と推測されています。家康は長生きして73歳、秀吉は61歳、信長は47歳です。江戸時代の人口動態を調べると、大雑把に言って、農民80%、武士15%、残りが商人です。『養生訓』を書いた貝原益軒は84歳と長寿を全うしました。益軒は辞世の歌「越し方は一夜ばかりの心地して八十あまりの夢をみしかな」を残し、人生はあっという間の夢のようだったと回想しています。多分に退屈に苦しむことはなかったのでしょうね。Wikipediaを読むと、多くの著述を残し、経学、医学、民俗、歴史、地理、教育などの分野で先駆的業績を挙げた、とあります。暇をもてあそぶことのない充実した人生だったのでしょう。

時代は下って、明治・大正に活躍した漱石は49歳、鴎外は60歳で亡くなっています。先のエッセイでも書いたように昭和25年に日本人の平均寿命が50歳を超えました。漱石・鴎外の頃は還暦を迎えることはとてもありがたいことだったのです。長生きする人にあやかりたいと願望しても、これまで誰一人、老後の辛さを語る人はいません。それが今や日本人の平均寿命は83歳。この50年間で30歳以上も長くなっているのです。不幸なことに、この30年を如何に過ごすかというモデルを私たちは持ち合わせていません。それだけではなく、老年精神医学も脳神経という器質性の話題に集中し役に立ちません。私が直面している問題は「退屈」なのです。仏教、キリスト教、いずれも沈黙を続けています。私たちの老後はどうなるのだ、と叫びたくなります。

もちろん、年寄りの退屈と若者の退屈には大きな違いがあるでしょう。でも共通するのはコナトゥスの弱体化です。存在力、生命力の低下です。刑罰の一つに、独房があります。独房に入れられると、何が辛いかといえば、退屈を紛らわそうと誰かに話しかけようとする意志(欲望=コナトゥス)を遮断されることです。独房は生命力を注ぎ落そうとする方法なのです。孤独も辛いけど退屈は死に値する拷問なのです。私の父はそう言って亡くなりました。

 私にとって退屈が苦手な理由は親の血を引いているからかもしれない。前回は、父をエッセイに登場させました。実は、母も退屈が苦手でした。母だけではなく、母の弟・妹も退屈すると昼間からゴロンと横になっていました。やることがないとゴロンと横になるのです。ゴロンと音が聞こえてくるかのようでした。でも、前回登場させた母方の祖母は、牛が草を食べ続けるように、畑を耕し、自分で料理したものを食べ、後片付けをして寝るという充実した1日を送っていました。亡くなった時タンスの一番下の引き出しには白装束を置いていました。潔い祖母でした。私には、退屈するとゴロンと横になる遺伝子と誰彼に言われずに自らを原因に畑を耕す祖母の血の両方が流れているのです。祖母の血は、現実には叶えられないけれど、烏骨鶏を飼う、という願望です。筑紫野の山崎ファームで働くのも一つかな。

 退屈の精神病理「ボアbore」

退屈しのぎで仕事に邁進していた若い頃、退屈には少なからずとも関心はありました。ボーダーライン(境界性パーソナリティ障害BPD)の研究で「ボアbore」という用語を発表したことがあります(第108回日本精神神経学会シンポジウム:パーソナリティ障害の臨床、電子版2013年4月)。ボアとは、長くなりますが、今夏出版予定の『スピノザの精神分析』(遠見書房)から引用しましょう。

ある患者さんは私との週3回の精神分析的精神療法の中で連想が進まず締りのない表情をすることがありました。その姿を後に患者さんの母親は、「社宅の砂場で遊んでいた子どもが、私が居なくなると、目に力がなくなりボー然と立ち尽くす姿を近所の奥さんから聞いて知った。その姿は小6の修学旅行の記念写真にもそっくり写っていた」と思い出したのです。精神分析的には「対象恒常性」の欠如と言われる現象です。BPD患者が母親の不在に上手く対処できないのは、内的対象が育っていないからです。同様の状態はウィニコット『ピグル』にも言及されていましたので、私はそれを「ボアbore」と呼んだのです。ピグルは1歳9か月のときに妹が生まれて精神的混乱(ボーダーライン状態)を来し、母親はその始まりを“she becomes easily bored”と表現しました。母親不在時に移り変わる精神状態「ボア」は、周囲の者には「一見退屈で、ぼんやりして生気のない、周囲に関心を示さない」表情に映るのですが、「退屈したり、ぼんやりしたり、不満であったり、そしてときには無茶苦茶に破壊的――物を引き裂いたり、壊したり、汚したりする――であった時期を通り抜けてしまったようです」と母親は描写しました。

BPDの成育史では3歳の頃から気づかれます。母親が傍にいると元気で普通の子どもですが、母親の不在で目に輝きが無くなり、退屈、無気力になる。小学校に上がってもそれは続きしばしば学校を休む原因になります。患者本人に意識されるのは10歳前後の小学校高学年になってからです。この時期に子どもは自意識が高まり心理的に母親からの分離を強いられるからです。その時に、同級生との関係を築けないと、種々の問題行動として周囲に気づかれるようになるのです。

 BPDを病んでなくても、仕事が退屈しのぎになっている人の場合、幼い頃から「ボア」の病理をもっているかもしれません。ワーカホリックといわれる人たちは、何かにとりつかれていると表現可能な仕事ぶりですね。ほどほどであれば長生きして貝原益軒や私の祖母のように充実した人生を送れるかもしれないけれど、過度であれば、仕事に追われ短命に終わるかもしれないですね。そして、退職や病気か何かで仕事ができない身になると私のように退屈に苦しむのです。仕事から離れた私が残された人生をどう生きるかの答えの一つとして、前回では、能動的欲望にその道を見出しました。ここではそれをさらに探求してみようと思うのです。

 利他の行為

お釈迦様は、妻と子どもを置いて出家して、6年間の難行・苦行の結果、迷いを抑え込むことは無理だと知って山を下り、河のほとりの菩提樹の下で座禅をしていて忽然として悟ったと言われます。それから5週間ほどお釈迦様は自ら達した解脱の境地を味わい続けました。それが、一転して、お釈迦様は説法へと舵を取るのです。この心境の変化は何だったのでしょうか。お釈迦様は言葉で言い表せないことは比喩を使って説きます。「梵天勧請」のエピソードでは宇宙創造神のブラフマンがやって来て説法を三度懇願されたからといいます。「メシア願望」を持ち出す人もいますが、私思いますに、スピノザの「寛仁」がお釈迦様に説法を決意させたのではないかと。お釈迦様は35歳で悟って、それから各地を転々として説法を続け、80歳で亡くなられます。亡くなられる頃の老体をお釈迦様は次のように語っています(中村元『原始仏教 その思想と生活』、NHKブックス)。


  「アーナンダ(阿難)よ。わたしはもう老い朽ち、齢をかさね老衰し、人生の旅路を通り過ぎ老齢に達して、わが齢は八十となった。譬えば古ぼけた車が革紐の助けによってやっと動いていくように、わたしの身体も革紐のたすけによってもっているのだ」。

 

お釈迦様をワーカホリックにかき立てたのは何だったのでしょうか。スピノザは、理性によって受動感情に隷属せずにいると、妥当に認識される緒感情から二つの勇気animositas寛仁generositasが生成されると言ってます。


勇気とは各人が単に理性の指図に従って自己の有を維持しようと努める欲望であると私は解する。これに対して寛仁とは各人が単に理性の指図に従って他の人間を援助しかつこれと交わりを結ぼうと努める欲望であると解する。かくのごとく私は、行為者の利益のみを意図する行為を勇気に帰し、他人の利益をも意図する行為を寛仁に帰する。ゆえに節制、禁酒、危難の際の沈着などは勇気の種類であり、これに反して礼譲、温和などは寛仁の種類である(第五部定理五九備考)。


スピノザは理性から自己の存在を維持しようとする欲望(勇気)と他者を援助しようとする欲望(寛仁)が生まれるというのです。悟ったお釈迦様を説法に向かわせたのは寛仁という欲望だったのだと思うのです。自己心理学を興した精神分析家のコフートも寛仁を彼の精神分析の臨床に求めました。スピノザは憐れみから他者を援助しようとする欲望が生まれ、それを慈悲心と呼んでいます。私たち人間は、悲しんでいる人がいると手を差し伸べ憐み、喜んでいる人がいるとともに喜びを分かち合う生き物なのです。

ようやくモヤモヤしていた「退屈」にもう1つの答えを見出すことができました。仕事から離れた私にできることは、つまり退屈から解放してくれるものは、勇気と寛仁、酒におぼれずに節制して誰かの役に立つことを心がけることなのですね。烏骨鶏を飼うのもいいでしょう。卵を近所の人におすそ分けするのもいいですね。しかし、あげる・貰うという近所のお付き合いは廃れてしまいました。裏があると勘繰られるかもしれないですね。愛し返しが面倒なのは今も昔も変わりませんから。

おわりに

前回から続いた「退屈」という魔物にスピノザの知恵を借りて解決を試みてみました。退屈する人は素質として先祖から受け継ぎ、人生は退屈しのぎ、という病理性の高いワーカホリックになりうると述べてきました。それに気づかずに仕事を失うと途端に途方に暮れ退屈という魔物に食べられてしまうと警告し、もしそれに気づいたのであれば、スピノザの「勇気」と「寛仁」が退屈を退治してくれるだろうと結論づけました。

長いエッセイに退屈させないようにここで終わることにします。


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