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『はじめまして地球さん、私オレンジジュースです』第三話「影響は私の栄養になるのか」岩月寧々編

 やめなよ みんながいじわるみたいで 萌音 かなしい 





 本当に、来たんだ。
「この間はすみませんでした」
 OJことオレンジジュースさんは、ルームに参加するなり開口一番謝罪の言葉を述べてきた。いやべつに、謝ることは悪くない。むしろ素直で良いことだ。ただ、彼女の謝罪を受け入れたくない自分がいた。
「いえいえ、むしろこうやってルームのメンバーが増えるのは嬉しいです、ね、地球さん」もぐぐみさんはきっと私がすぐに返事ができないと察したのだろう。代わりに破天荒な新参者をうまく対処してくれる。
「この間はありがとうございました、もぐぐみさん」しらふのオレンジジュースさんの声は、前回より遥かに落ち着きのあるものだった。当たり前だけど。
「こちらこそ、参加してくださってありがとうございます」もぐぐみさんの英邁闊達な人柄は声だけでも伝わる。
「あのー地球さん」
「えっ、は、はい」急に呼びかけてくるので吃ってしまった。
「この間は失礼しました。改めまして、私オレンジジュースって言います。よろしくお願いします、地球さん」
 なぜだろう。自分でつけたハンドルネームなのに呼ばれることに抵抗感をおぼえる。男子たちが嘲笑でその名を呼ぶ、あのときの記憶に突き落とされるそんな感覚。
 地球。このあだ名がつけられたのは、小学四年生のときだった。あの頃、レイチェル・カーソン『沈黙の春』に感銘を受けた母は家庭菜園に凝っていた。そんな母に感化され、私の夏休みの自由研究は「家庭菜園から考える地産地消と環境問題」というものだった。もちろん母の力を多分に借りて書いたので、「私の」自由研究とは言い難いが。母のおかげで例年のように行き詰まることもなく順調に進んだため、調子に乗った私は仕上げに下手くそなイラストまでつけてしまった。イラストは、検死台に横たわる青い髪の地球を擬人化したものと、その隣にへどろとゴミと汚染物質でできたフード付きマントを着た環境問題の擬人化。地球は髪を切られ、体のあちこちをメスで切断され、さらにはドクロマークの液体が注がれていた。イラストの下には、「私たちは地球を破壊し、汚染し、切り刻み、そして豊かだと思い込んでいる生活を送っている。地球はどれだけ痛いのだろう。私は地球の痛みを少しでも知りたいと思いました」とコメントを書いた。黒歴史というべき、思い出すのも恥ずかしい内容だ。これがクラスメイトに大ウケだった。もちろん揶揄いとして。そこからつけられたあだ名が地球ちゃん。自由研究の発表後、男子たちは鸚鵡のようにこの名前を連呼してきた。だが、あのとき萌音は庇ってくれた。「やめなよ」確かに萌音はそう言った。ただ、そのあとに続く言葉は本当に私を庇っていた? と首を傾げてしまいそうなものだった。
──みんないじわるしているみたいで、すごくいやなの。だって雄大くんも奏多くんも司くんも、萌音にやさしいもん。寧々ちゃんにしてること先生が見たら、きっとみんなが悪い子って思われちゃう。
 たしかにみんな「優しい子」だったんだと思う。萌音の言うことを素直に聞いたのだから。結果として、男子は揶揄うのをやめ、その後私の自由研究は市の優秀作品に選ばれたため、地球というあだ名に負のイメージはなくなった。ただ、萌音に関しては、事態を収束させることを見通してあんな言い方をしたのではない──いや、幼い日の私のためにそれは大人の私が判断しないでおこう。
 オレンジジュースさんの口調は決して揶揄っているようなものではなかった。それなのに、なぜかあのときの嫌な記憶が思い出された。
「オレンジジュースさんよろしくお願いします」なんて本音はおくびにも出さず、大人の余裕を漂わせて私も挨拶をする。
「あーそれなんですけど。オレンジジュースって呼ぶの、面倒くさくないです?」
 何だろう、この、敬語をつかっているのにタメ口感。しかもあなたがOJじゃなくてオレンジジュースですって言い出したのに。
「オレでいいですよ」
「……オレ、さん」ちょっと吹き出しそうになった。本人はいたって真面目に言っているところが、また何とも。
「あっそうなるか、しまった。じゃあレンでお願いします」
「お気遣いありがとうございます。では今後はレンさんと呼ばせてもらいますね」くすりとも笑わずにもぐぐみさんが言う。もぐぐみさんの笑いのツボには擦りもしなったらしい──そもそも彼女は吹き出したり、爆笑したりするのだろうか。
「レンさん、よろしくお願いします。ショットです」完璧なタイミングでショットさんが清爽に会話に入り込む。息がやや弾んでいるのと、風の音が聞こえるので今晩もランニング中だろう。
「ゆうせいです、よろしくお願いします」小さな開いた口の中で言葉を転がすように喋るゆうせいさん。抑揚がないのはいつものことなので、彼がレンさんを歓迎しているのかどうかよくわからない。
「みなさんよろしくです。ここってピーター・シンガーの会なんですよね。ちゃんと自分で買って読みましたよ『なぜヴィーガンか?』」
 自由人っぽいのに変なところで真面目で、付き合いづらい相手だ。彼女みたいなタイプとはいままで接触したことがないし、何だったら避けてきた。
萌音の周りにいるのはみんなそういうタイプばかり。何にも考えずに何でもオッケーって感じを出すくせに、私がちょっとでも萌音の不満を言うとすぐ庇って真面目ぶる。そういうところが許せなかった】
「すごいですね。ただ、ここはヴィーガンやベジタリアンだけでなくさまざまな悩みを抱えている人が参加できるんです。たとえば、私は以前夜間摂食症候群でして」シンガーの本をたった一冊だけ読まれましても、と心の毒にはきちっと蓋をして私は言う。
「──ふうん」レンさんの声のトーンが明らかに落ちた。
 何その反応。私、あなたが気に食わないこと何か言いました?
「それって、どんな感じなんです? 夜間ってことは夜だけにするってこと?」
 そうだった。レンさんはもともと食について悩んで参加した人ではなかったと改めて気づかされる。もちろん食のマイノリティでも夜間摂食症候群を知らない人がいても何ら不思議はないが。
「そうです。寝る前に大量に食事をしないと落ち着かないし眠れない、そういう状態が続いていました。大量のごはんやスイーツを食べるとやっと眠れるんですけど、あれっていま考えたら血糖値スパイクだったのかな」
「血糖値が急激に上昇すると眠気に襲われるっていいますからね」ショットさんが喋るたびに、並びの良い白い歯がきらりと光るイメージ映像が流れる。
「へー血糖値スパイク。難しい本を読んでるし、みなさん賢いんですねー」
 ほんの一瞬良い気分になるが、どうせ本気で思われていないぞと慌ててレンさんには冷ややかな心の視線を送る。ただ、賢いという言葉はやはり嬉しい。
「地球さんは夜間摂食症候群を克服され、いまはフレキシタリアンなんですよね」もぐぐみさんは私の喋るための土台をつくってくれる。彼女のこういう所が好きだ。
「ふうん」
 意味わかっていないでしょ、と言いたくなるぼんやりとした返事をレンさんがする。本当に『なぜヴィーガンか?』を読んだのかあやしい。
「シンガーも自身をフレキシブルなヴィーガンと言っていたとおり、フレキシタリアンとは完全菜食主義ではなく、魚介類は食べたり、ときにはお肉を食べたり、極力動物由来食品の摂取を減らしている人のことでして」得意満面で私は決まり文句の言葉をするすると紡ぎ出す。
「ああ、それは本に書いてありましたよね。訳者解説にもう少し細かく分類されていて、魚介類は食べるペスカタリアンとか」
「ええ……」よく読んでいますね、そう言えば余裕を見せつけられたのに。言葉が続かなかった。
「地球さんってどういう種類のフレキシタリアンなんです?」
 種類って。昆虫じゃあるまいし。
「私は、魚介類も乳製品もお肉も食べます。ただ、摂取する回数を減らしているんですよ。はじめた頃は1週間に一日だけ、月曜日は動物由来の食品を一切口にしない、って。いまは週の半分くらいかな」
「僕もです、ミートフリーマンデーからはじめました」
「ショットさんもそうでしたよね」私の声がワントーン高くなる。ショットさんは私の仲間だ、そう思えて嬉しかった。フレキシタリアンになったのも、急に食を変えるとストレスが大きいのでミートフリーマンデーからはじめたのも、もぐぐみさんからの影響と助言があってのものだが。
「ああミートフリーってポール・マッカートニーが推奨して日本でも話題になってましたね」
 食に興味があって参加したのではないわりに、想像以上にレンさんは詳しかった。ただSNSで話題になっていたので、単に暇さえあればスマホを見ているタイプかもしれない。
「そうそう。僕はポールの件よりももっと前ですけど」
「なんで始めようと思ったの?」ほら、どんどん口調が崩れていく。レンさんってこういうタイプだと思った。
「僕は好きな格闘家が菜食主義だったんです。肉食主義カーニズムの選手にひ弱な草食動物みたいな暴言を吐かれるんですけど、そいつに勝つんですよ。自分と違うからといって嘲笑する相手をやっつけるって、かっこよくないですか。僕のヒーローですね」
「それ、わかる」私が言おうと思ったのに。答えたのはレンさんだった。
「自分と違うからって排除しようとするやつらは、ものを知らない人たち。そもそも自分と同じ人間なんているわけないのに」ゆうせいさんは自分が憂慮している部分に触れられると突然雄弁になる。「同じって何ですかって話。他人と自分の見分けがつかなくなったことあります? 自分と同じ人間なんて僕は会ったことがない」
「うん、確かに」深い話に対してやけに軽い返事だ。レンさんの態度でゆうせいさんが不快にならなければ良いのだけど。
「みんな違うことを前提に違いを理解しながら接していくべきだと思う。いまの日本は多様性を認め合っている社会とはまだまだ言えない気がするんですよね。昭和の感覚を引きずっているっていうか。世界とアクセスできるインターネットを手に入れたのに、考えは全然世界を見ていない。女性議員の数はお隣の韓国、それから中国、ロシアよりも少ない。G7で同性婚を認めていないのも日本だけ」すごいな、ゆうせいさん。私が学生の頃、こんなことを考えてはいなかった。彼くらい高い解像度で世界を見れたなら。
「違いを理解するって、それってかなり難しくない?」
 待って、なぜこの雰囲気をぶち壊す、レンさん。
「どういう意味ですか」ゆうせいさんの声から警戒心が滲み出る。
「いや、だってさ、みんな違うことってのが前提はまだわかるんだけど、違うことを理解するのは難しいよね。同じを理解しようとするには自分の経験をもとに判断することができる。例えば、私が塩パンを食べて、同じ店で買った塩パンを食べている人がいたら、バターの香りがするだろうなとか、塩の味がするな、とか自分の経験を元に同じようなことが相手にも起きていると想像することはできる。この同じがどこまで同じかを追求するとこれもまた難しいんだけど。でも、違うことは想像しづらい。違うことは経験していないことも含まれるから。塩パンからヴァシュラン・モン・ドールの味がするだろうなとかは想像できないように」
「ヴァシュラン・モン・ドールって何です?」ショットさんは知らないことを臆せず質問できるタイプだ。
「チーズなんだけど、ほら、知らないと「違う」の中に含むことさえできない。これをどうやって理解するのか、そこから考えないと漠然と違いを理解するとか言われても難しいよね」あっという間にレンさんはこのルームの中心になっていた。
「ヴァシュラン・モン・ドールはスイスのウォッシュ系チーズですね」もぐぐみさんがまだ悩んでいるであろうショットさんへ補足を加える。誰が中心だろうと、いつも彼女はサポート役だ。これで経営者だというのだから、ちょっと自己主張が弱すぎではなだろうか。
「だから多様性って言葉だけが先にきてしまった感じが私はするの。まずは勉強する機会をもらわなくちゃ。自分でネットで調べろったって、知らない言葉は検索すらできない」
「つまり、発信しない当事者たちが悪いってことですか」ゆうせいさんの声という殻を突き破り、棘が突き出てくる。
「うーん、難しいよね。そもそも当事者って言葉ももやもやするの。みんな何かの当事者であるわけで、もしくは新たな当事者になる可能性を持っている」
「でも自分と関係のない問題にはみんな知らんぷりか、拒絶する」
「そうなのよ。もちろんそこが良くないと思うの。でも受け入れられないとか、受け入れる態勢を整えていない人にいきなり言葉だけをぶつけてもそれは難しいって話」
「それは違うと思います。みんな話を聞こうとしないからですよ。僕のバイト先の店長なんて、平気な顔して『同性愛のやつらは隠れてこそこそ付き合ってりゃ良いだろ。それならこっちも文句はないんだ。それを結婚させろとか権利を主張するからダメなんだよ』なんてゴミ見たいな台詞を言ったきたんですよ。彼に受け入れるための態勢を整える気があるとも思えませんね」
「うん、そりゃそうでしょ」
「ですよね。だから知ったところで無理なんですよ。日本は集団主義なんです。集団行動を乱す人は変人扱いしておけば自分は集団の中にいられる、そういう思想が根付いている」
「そうかな。それって日本だけに限らず大陸でも魔女狩りってあったでしょ。それこそ現代でも人種差別はあるわけだし。集団によるいじめは世界でもみられる。もちろん日本はその傾向が特に強いとかはあるのかもしれないけど。でもさ、聞く耳を持たない相手に憤りを感じるより先にやることがあるでしょ」
「何ですか?」
「私みたいに聞く耳を持つ人間に自分の不満や持論をどんどん訴えることよ。えーとつまり私が言いたかったのは、いきなり多様性を受け入れるという言葉だけが広がっても受け入れられない人が多くいるのだから、そこを十把一絡げにして『どうせみんな』って憤りや怒りを感じるのはもったいないってことで。なんかうまく説明できないや、ごめん」
「……おもしろい人ですね」嫌味なのか、興味を持ったのか。ゆうせいさんの内心は読めない。
「ひゃーやっと双子寝たー」気まずい空気を最高のタイミングで壊したのはkomaさんだった。私は、苦労をこれほど雀躍とした声で話せる人を彼女以外知らない。
「komaさんお疲れさまです」「komaさんこんばんは」もぐぐみさんとショットさんが挨拶をする。
「komaさんいらっしゃい」私は彼女の声が好きだ。自然とつられて私の声も明るくなれるから。
「遅くなりましたー。おお、オレンジジュースさん、来たんだ」
「来ちゃいました。この間はごめんなさい」
「いやいやや、じつはさ、友人の結婚式でゲロった話、大爆笑だったの。だからマイクオフにしててごめんねー。笑ってたら双子ズが起きちゃって。その後ずっと会話に参加できなかったんだけど、めちゃくちゃ興味あったんだよね、オレンジジュースさん」
「その名前、長いんでレンで」
「私ももうレンさんと呼ばせてもらっています」もぐぐみさんが言う。
「んじゃ私もレンさんで。よろしくねーレンさん」
「よろしくです、komaさん」
「僕もあの話、笑ってましたよ」
「ショットさんも? 笑いのツボまさかの私と同じ?」
「komaさんとショットさん、オフ会でもいつも笑ってますもんね」珍しい。ゆうせいさんがこのわちゃわちゃした会話に参加するなんて。
「ゆうせーくんは笑わないよね」がははとkomaさんが笑う。私は双子ちゃんがまた起きてしまわないかひやひやしていた。
「そんなことないですよ。ゆうせいさん、笑顔が素敵なんですよ」
 知らなかった。もぐぐみさんには笑顔を見せるんだ、ゆうせいさん。
「へーそうなんだ。私はまだ見たことがないから、ゆうせーくんに笑ってもらえるようなトーク術を身につけなくちゃ」
「komaさん、そういうのいらないですから」
「ところで、ここってオフ会とかあるんですね」レンさんが話に割り込む。
 まさか、参加する気じゃないでしょうね。
「そうなんです。不定期なんですが、もうすぐ文フリがあるので、今回のオフ会は今週の日曜日です。オフ会というか文フリのミーティングですね」
 もぐぐみさん答えちゃうんだ、と心の中で大きなため息を吐く。スルーするタイプではないのはわかっていたけれど。
「文フリ?」
「文学フリマと言って、文学作品を個人で出展するイベントです。文学というと小説をイメージされる方もいるようですが、論考などもあります。今回は私も参加しようと思って。豆腐と大豆について私なりに勉強したものを本にするつもりです。他のみなさんも食に悩んだ経験を書籍にして参加されたりしています」
「何だかおもしろそうなこと色々やってますね。偶然だけどこのルームに来れてよかった」
「おっ嬉しいね」komaさんはきっと相手が誰でも同じ台詞を言うだろう。
「文フリも興味あるし、私もオフ会に参加したいんですけど」
「えーめっちゃ盛り上がりそう。みんな、良いよね」komaさんがこのテンションで言ってきたら、断るような人間はこのルームにいない。「いつもレンタル会議室でやるんだけど、飲食物持ち込みオッケーだから。私も久しぶりに飲んじゃおうかな。レンさんと飲んだらぜったい楽しそう」
「あれ、飲みイメージついちゃってる?」
「初回に結婚式で赤ワインがぶ飲みした話したのに、そこ、聞きます?」鋭いツッコミを入れるゆうせいさん。珍しすぎる。
「楽しそうになってきましたね。僕もお酒持っていきますね」
 ショットさんまで。こうやって、あっという間にみんなの中心になっていくんだ、レンさんは。
【こいつ萌音に似てる】
「基本的にオフ会は誰でも歓迎なので。コメント欄にオフ会の詳細を送っておきますね」
 もぐぐみさんまで、レンさんを歓迎するんだ。正直、明後日のオフ会はドタキャンしたいくらいの気持ちになった。ただ、そんなことをするとみんなの私に対するイメージが悪ってしまう。そして何より私がいない間にレンさんがみんなとしたしいくなるのは避けたかった。
「レンさんが来てくれたら盛り上がりそうですね。日曜日、楽しみです」言えた。私は良い人ぶってなんかいない。ちゃんと受け入れられたんだ。さあ、レンさん、本物の良い人に対してあなたは何て言う? 
「やば、めちゃくちゃ歓迎されていて嬉しいんですけど。ほんと、いいルームですね。あ、そろそろ私、用事があるんで退出しまーす、じゃ、日曜日に」
 はあ? 言いたいことだけ言って、自分はさっさとルームを去るの!?

 ああ、もう、イライラする!!

#創作大賞2024
#恋愛小説部門

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