「メンやば本かじり」anti-「The Library of Babel」system編
「メンタルがやばいときは、本をひとかじり」
「メンやば」と略しすぎて、本当のタイトルを川勢自身が忘れ、自分の公開マガジン一覧で確認してきた。
やばい、バカすぎるだろ、私。メンタルの前に、知性がやばいわ。
そうそう、バカといえば──バカガイと呼ばれる貝の存在は、周知のことかと思われる。
先日、そのバカガイにまつわる、爆笑ネタを「南房総市」のホームページでみつけてしまった。
昔、(おそらく貝類を食べたことがない)村人が、人からバカガイを貰った。「この貝の腹には砂が入っているので、腹は捨てて、身だけを食べるように」と教わったため、素直に腹──というか貝を開いた中身をすべて捨て、貝殻のみをばりばり食ったという。
まじか! めっちゃ歯、ばきばきになりそうやん!
などと爆笑しつつも、冷静に考えると、私もやりそうや。
やばい、やばいぞ。
そう、今さらながらに公言するのもどうかと思うが、やはり私は頭が悪いのだ。本を読んでいるくせに。
頭が悪いので、本は好きだが、自分の力だけではなかな素晴らしい本に出会えない問題が発生する。
ネットはフィルターバブルにやられ、結局自分の域を越えることができない。小さな個人書店すべてに足を運べる時間と財力もなく、汗牛充棟な大型書店では、私ごときは結局知っている著者の名前を見つけ、ほっと安堵するのだ。
おそらくこの世にある甚大な書籍の中に、私が求める『私を導いてくれる』書があるはずなのに。私はそれを探したい、のに。
なんてことを考えていると、思い出すのはボルヘスの「バベルの図書館」。
無限に続く回廊と、それらの壁に埋める書棚、そして書籍たち。この図書館には司書と呼ばれる人びとがおり、彼らは螺旋階段をのぼり、先ほどまでいた回廊と寸分違わぬ景色のなか、ことばを求め、彷徨い続ける。
さて、まずは上記の引用文からバベルの図書館こと「宇宙」の一辺の大きさについて考えてみようと思う。
本棚の高さが天井の高さであり、それは図書館員の背より少し高いという。書棚は五段。もし、おさめられている書籍がA4判(写真集などのサイズ。ぱっと目についた我が家のA4判は『ルールズ・オブ・プレイ──ゲームデザインの基礎』のペーパーバック版だ)なら、天地の高さが二九七ミリであり、その本を取り出すためには三〇ミリほどのゆとりをもたせたいところだ。
と、考えると、二九七足す三〇は三二七ミリ。
これが、五段なので、一六三五ミリとなる。
図書館員の通常の背丈が一六〇〇〇ミリならば、書籍はA4判と考えて良さそうだ。
ちなみに、もう少し大きい書籍だとB4判だが、このサイズで計算すると書棚の高さが一九七〇ミリとなる。これは、さすがに高いな。
ボルヘスの出身国アルゼンチンの平均的な身長は、J・LEAGUEホームページによると、一七八九ミリ。これはサッカー選手限定の話なのかもしれないが、いずれにしても、B4判よりは、A4判、もしくはA4変形と考えるのが妥当だろう。
では、続いては書棚の幅。
四百十ページにもおよぶ書籍が三十二冊、ひとつひとつの書棚におさまっているとある。
「バベルの図書館」には、五百年といった話がごく自然に書かれており、そう考えると、ここに並ぶ書籍は丈夫な上製本と想定(とはいえ、橋口侯之介氏による『和本への招待』(角川ソフィア文庫)によると、一千年以上も昔の和本が現在の神保町にもあるくらいなので、上製本にこだわる必要はないのかもしれない)すると、斤量が九〇kg程度の一六ページの折(文字が印刷された紙)が、二十五台(枚)、残りは八ページと二ページの張込み(それぞれのページの背を糊でくっつける)であろうと考え、おそらく束(本の幅)は二七から二九ミリだと思われる。
まあ、こちらも余裕をもたせて、束が三〇ミリだとし、三〇ミリの本が三十二冊だと九六〇ミリ。しかし、これだと取り出すことがほぼ不可能なので、一つの書棚の幅は千ミリとしてみる。
と、あるので、書棚の厚みも考慮すれば一辺が五メートル以上であることは間違いない。ここで、前にあげた引用文
と一瞬混同してしまったが、本の棚が五段であって、その五段式の書棚が五つあるものだと私は考え直した。そうでないと、六角形の一辺が「長い」とはとても言えなくなるからだ。
書棚の幅、人が書棚の前を歩くスペースを考えると、だいたい三畳ほどの大きさが一辺だと考えても良さそうだ。三畳ほどの部屋に、壁一面の書棚、そして書籍。これが、一つのフロアに四つある。これだけでも、すべて読むには一年では足りない。しかも、この回廊は無限にある。
この中から、『弁明の書』と呼ばれる、弁明と予言の書を探そうと司書たちは競い合うのだ。
遠い地方の人間とは、上下無限に続く回廊の遥か上か下で生まれた司書をさす。ちなみに、この司書。どうやって生まれてくるのかは謎であり、父は出てくるが、母は本書で語られることがない。そうなってくると、本当に生きている人間なのかもあやしいところだが、自分が知らないことを否定することは容易いのだが、確かめることはなかなかしない。私の悪い癖だ。
そうなんですよ。無限かどうかも確かめずに、無限を否定し、有限だと判断する。不合理な人間なのです、私は。
だからこそ、この世に存在する膨大な書籍を一向に確かめることなく、だがしかし、貪欲なので、自身のための書を探してしまうのである。
私のような、怠惰で、浅学な人間を切り捨てない、そんな稀有な書籍は──あるねん。すごいわ。
それこそが今日、紹介したい書籍、『人文的、あまりに人文的』だ。
本書は、そのタイトル通り、ニーチェ、ではなく、人文書について書かれた、人文書のガイドブックだ。
現在、日本語で出版された書籍は──誰かカウントされています? と聞きたくなるほど、溢れかえっている。一日に二〇〇冊出版されていると言われており、人文書だけに絞ったところで、把握しようとするのは気が遠くなる。そんな中から、一体どうやって自分がほしい書籍を探せばいいのか。帯文だけではわからないし(ま、そもそも、その帯文でさえ、すべては把握できない)、ざっと内容を知るにはどうしたらいいのかも、もはやお手上げだ。まさに、バベルの図書館。無数にある書籍の中から、いかにして自分の求める書籍を探すのか。
そんなとき、この『人文的、あまりに人文的』は、山本氏と吉川氏による対談形式で、読みやすく、しかもそれぞれの書籍紹介文が十ページ未満という大変ありがたいもの。もちろん、お二人は熟読されているのでその短さで的確な紹介文を記載しており、私は優雅に三幸のサラダせん(うまい。そして安い)をばりぼり食しながら、おもしろそうな本だけをピックアップできるという仕組みだ。
なんと素晴らしい! 怠惰スーツ(『封神演義』(ジャンプコミックス)藤崎竜 著)を欲する私には打って付けの書物ではないか!
本書には、『独学大全』の読書猿さんによる『アイデア大全』から、ストア派のエピクテトスによる『人生談義』、そして日々使用している(例えば自転車や、トイレ、スマートフォンなど)のに、その構造を聞かれたら答えられないことを指摘する『知ってるつもり、、無知の科学』など、素晴らしい書籍が並べられている。
そして、これらの「知」に対する、知そのものをテーマにした『知の果てへの旅』も。
そうやん、言われてみたらそうやん。なぜ、こんな単純な道具にすら、しかも人間が作ったごくシンプルな道具すら、いかなる結果を出すか、私はわからなのだ。すごく気になる。
と、こんなふうに好奇心が湧いても、いまさらこの年で、とか、知ったところで何になる、とか、すぐに怠惰川勢は考えてしまう。だが、本書内の『子どもは40000回質問する──あなたの人生を創る「好奇心」の驚くべき力」の紹介文には
こんなふうに、膨大な書籍の山から、気になる単語を必死に探さずとも、すでに膨大な書籍を読んだ人たちが、試食させてくれるのだ。ありがてえ、ありがてえ。
もし、私のように書籍の山で迷えるかたがいらしたら、ぜひ。素晴らしいガイドさんが導いてくれますよ。
あ、ちなみに、タイトルがなぜ「バベルの図書館」ではなく、英語なのかと言いますと、カッコいいから。ではなく、「The Library of Babel」というバベルの図書館を再現したサイトがありましてね。それを見ていると、精神が不安定になるのですよ。まさに、メンやば。もし、そのサイトを見てしまったら、『人文的、あまりに人文的』で深呼吸してくださいませ。
■書籍データ
『人文的、あまりに人文的』
難易度★★★☆☆ 入門書という名の専門書、わかりやすいという売り文句の難解書が溢れるなか、本書は優しくエスコートしてくれるまさにブックガイドの書。
エピクテトス『人生談義』や、ルソーの『社会契約論』など、知ってはいるが手にとることに二の足を踏む書籍から、本書を読まなければ(私は)出会わなかったであろう『マルチバース宇宙論入門──私たちはなぜ〈この宇宙に〉にいるのか』など、読む気力が出ない書籍や、出会うことがなかったかもしれない書籍との出会いの場をつくってくれる、こんなこと、一体何で他人のためにせなあかんねんという面倒をかってくれる、稀有な書籍だ。
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