「読むためのトゥルーイズム」を読み、『浮遊』を読む。第四回
今回は『文學界』2024・5月号。「読むためのトゥルーイズム」から、遠野遥さん『浮遊』を読み進めていく。
前回までのトゥルーイズムは
■本を読むには、まずトゥルーイズム(自明)から理解していく
■取り組む課題について述べられている箇所に印をつける
■総ページ数、各章のページ数を把握する(図を作成する)
■目次を読み、各章のねらいと思われる部分を引用する
ということだった。
作成したグラフと、表がこちら。
『浮遊』には目次がないため、各章の番号と冒頭部分を目次代わり、そして各章を記載した。
前回の「読むためのトゥルーイズム」では事前準備の概要が記載されていた。図をそのまま転載できないので、かなり不細工になってしまったが作ってみた。それが下記の図1。これは酷いので、ちゃんと文學界を買って正しい図を見てください。ごめんなさい(そもそもGoogleドキュメントだと縦書きで書けない)。
cとは、話題の順序と階層ということになる。
前回やったことのはずなのに、うーんと唸っていたら、そこは「読むためのトゥルーイズム」。私のように理解力に乏しい読者もちゃんと拾ってくれるのだ。
私の場合だと、遠野遥さんによる『浮遊』において、どのような素材を用いて、どのようにそれらを組み立て、配置しているのかを考えることによって、遠野遥さんが何をしているのかが見えてきて、そこ(場面)では何が行われているのか、何が起きているのかがわかってくる、はずだ。
つまり、ここには自分が読んでいて「楽しい」「不快」「おもしろくない」「好き」などの感情は必要ない。
以前の私は、自分が読んでいて楽しければいいじゃないか、という作者が提示してくれた利用可能な資源(主語・述語といった文法構造や、第一に・しかしといった接続表現、目次や句読点など)を無視した読み方をしていた。だが、作者を無視して自分が楽しいことだけしたいのなら、それは「読むためのトゥルーイズム」にも書かれているが、ただの自己愛になってしまう。結局読んでいるようで何も読んでいないので、ただただ刹那的な快楽だけで、何も得ていないのだ。そんな読書はもったいない。せっかく時間をかけて読むなら、自分の中にないものを知りたいので、やはり本連載の読書方法を少しでも取り込みたいと思う。
ということで、続けていこう。
ある文書を読みはじめた段階では、もっとも手前にある資源、つまり目次から考えていこうとうのが前回までの話だ。
だが『浮遊』には目次がない。なので、各章の冒頭部分から考えていくことにした。それが最初に示した図、「各章のコメント」である。
『浮遊』は女子高生ふうかの世界と、ゲームの世界が主な舞台だ。よってこれらの配置(あるいは分量)は、「各章のページ数」というグラフにした。
次のステップとして、これらの図やグラフから、そこで何が行われているのかを考えていく。この件に関して、「読むためのトゥルーイズム」ではこのように説明されている。
文書を読み実践の記述を行うのはとても手間のかかることに思えるが、酒井氏と吉川氏が仰っているように、日常会話では難なくできているのである。
ああそっか、と当たり前のことにまたお二人から気づかされるのであった。
例えば「川勢 B会議室」と書かれたメモがあったとしたら、日時、参加場所、参加人数(メンバーの把握)、会議の内容、自分の役割は確認するし、職場内の人に「何このメモ」と聞かれたら、「明後日の昼食後、二階のB会議室でチームリーダーから新しいシステムの導入による説明会があるんですよ。そこで新システムの操作方法を指導があるみたいです」と言うだろう。
そして実際に説明を受けている間──そこで何が行われているかがさっぱりわからなかったら大問題だが──「今こういうことが行われているぞ」とその場で受けた説明を記述するだろう。
参加していない他の職場のメンバーへの説明を頼まれたら、「説明会は楽しかったよ。私はあのシステム好きだな」などと伝えたりはしない。どのような説明があり、どういうシステムで、操作をする際に必要な行為(および知識)を伝えようと必死に努力する。
これを読書でも同じようにする、というのが「読む」ためには必要なことなのだろうと私は解釈した。
ここから先は、お二人が課題に出されている書籍と『浮遊』がかなり違う(序章やねらい、目次などが『浮遊』にはない)形式なので、可能な範囲で実践していこうと思う。
「トゥルーイズム」で使用している『思考の教室』では、冒頭の一文記載の目標を─序章末尾記載事項によって実現するという関係にあるという。そしてこれらは〈目的/手段〉の関係だったり〈上層upper/下層lower〉の関係にあると説明している。以下upperはU、lowerはL。
これを『浮遊』でできる限り実践してみたいと思う。
上記の表を参考に要約すると
・[U1]ふうかとゲーム『浮遊』の話である
・[L1]ふうかとゲーム、どちらもメイン登場人物は十代の少女と中年男性
◯[L1a]彼氏と父親は同じくらいの年だが、父親には不満があり、彼氏には良い部分を多く見出している
◯[L1b]『浮遊』内では何度も失敗しながらも、自身で解決策を見つけ、
少女を導いている
◯[L1c]ふうかは彼氏や父親の援助も受けていることは確かだが、少しずつできることは増えている
うーん、うまくいったとは言い難いが、この要約でざっくり読めるのは、主人公のふうかは思春期の第二次反抗期※に近い反応が父親に対してあるように思える。
※第二次反抗期は中学生までとするものと、一七歳までも含む場合もある。ふうかは一六歳なので、一応対象内として考えてみた。
「読むためのトゥルーイズム」ではこの要約から図を作成しているので、私もなんとかを図をつくってみよう。
『浮遊』では一六歳のふうかと父親、そして父親とほぼ同じ年の彼氏である碧くんが登場する。碧くんは、ふうかに大人っぽい服装を要求し、周囲から子供として見られないように注意している一方で、ふうかを子供だとして扱っている(ただし「一六歳ということを忘れていた」というシーンが6章に出てくる)。
ゲーム『浮遊』では、主人公の少女はふうかと同じ年くらい、他の登場人物は黒田という中年男性、それから悪霊だ。少女が襲われずに接することができる人物は黒田だけとなる。
大人と子供がどの章にも出てきて、しばしばふうかが大人である(あるいはあるべき)かどうかが問題となる。まずは各章で大人か子供かについて取り上げている部分を抜書していこうと思う。
上の図は、左から、各章、各章の大人あるいは子供を連想させるワードの抜書、抜書から大人か否かを判断できるかという私の見解、を書いている。
これを先ほどのように上層と下層で考えていこうと思う。
・[U2]ふうかは十六歳である(十六歳は法律上未成年である)。
・[L2]父親ほどの年齢差がある彼氏と付き合っているが、彼氏はふうかとの付き合いを隠しているので、彼氏からも世間から子供だと判断されていると予想できる
◯[L2a]大人とされる年齢の人でも感情的になる人がいる
◯[L2b]服装では大人にはなれない
◯[L2c]ふうかはまだ大人ではないが、大人についてのヴィジョンはある
これを「読むためのトゥルーイズム」にある積極的または消極的に明らかにする図の作成に挑戦してみたいと思う。
一六歳は法律上未成年なので、大人か子供かを考えるのはおかしいと思うかもしれない。ただ、生活をしていくうえで法律だけを考えて常に言動を判断する人ばかりというわけでもなく(そもそも日本におけるすべての法律が完全に頭に入っている人の方が少ないのではないか。もちろん私は入っていない)、法律上は成人とされる人でも「大人げない」行動をとる人はいる。
さて、今回は『浮遊』のなかに見られる大人というワードにスポットを当てたが、遠野さんが使った素材はもちろんこれだけではない。
主人公のふうかは、6章における母親に対する後悔以外は「〜かもしれない」という、断定しきれない不安定な部分がみえる。
まだまだ『浮遊』を読むためには「読むためのトゥルーイズム」の力が必要だ。