【小説】晩夏、神田川と猫

 進学のために上京して数か月が経った。当初こそ新鮮だった体験も今では日常となり、いつしか私の生活に退屈を生み出す原因となっていた。
 晩夏の真昼、私はすっかり冷たくなった風を受けながら神田川の辺を歩いていた。川岸に植わる桜の枝垂れ一節々々はとても美しく、それらを眺めながら歩くのは私の日常における数少ない楽しみであった。今日のような晴れた日には、淡い緑から洩れる光が浅い川底に輝き、黄色がかった葉は夏の終わりを告げるかのようにはらはらと舞っている。ここらに住んでいる者からすれば至って普通の景色であることには間違いない、桜の満開になる頃が好きな者がほとんどだろう。私の地元にない景色だから魅せられたのだろうか、いや、ほとんど毎日見る景色にこれほどの安らぎと心地の良さを覚えるのはそうないだろう。この景色は、何がそうさせるかは分からないが私の大切なものであることに変わりない。ただ行きつけの飯屋で食うために通るこの道だけでも私は満たされるのだ。
 心安らぐ景色にしばしの別れを告げ、脇道に入る。曲がってすぐの角にある小さなビルの駐車場には決まって茶色のトラ猫がくつろいでいる。今日もこいつは居た、いつもとは違い日陰ではなく車の上で、暑い夏の終わりに満足そうに目を細めていた。
 ふとそいつを見て立ち止まる。こいつは何時だって、すぐ傍の景色を楽しむことができる。その体で辺を散歩したり、水の流れに心地よく黄昏たりすることができる。お前はなんて恵まれているんだ…そういった羨望を投げていた。
 心地よさそうな猫が一匹、それに妬く男が一人、神田川に佇んでいる。そんな現実に馬鹿らしさを感じ、私は空腹を満たすために道を急いだ。

 あの茶トラが無性に気になり、帰り道にその場所を覗いてみた。残念ながらあいつは姿をくらましてしまっていた。どうせ明日にでもなればまた車の上にでも寝そべっているのだろう。軽く息をつき、川岸に出た。
 あいつが見ているこの場所はいつだっていやになるほどの日常なんだろう。昼のひと時しか見えない私よりも多くのことを知っている。違う季節、違う天気、違う時間。毎日どのようにそれを眺めているかは検討もつかない。まぁ、あいつにはあいつなりに離れられない理由があるのだろう。その理由が私の知るこのたった一葉の景色であればいいな、そう想いながら私は帰路についた。

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