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ウイルスライダー

「寄生生物が宿主を操る例としては、ハリガネムシが有名だね」
 とある大学の一角。古ぼけた印象をぬぐい切れない研究室。だが机の上の実験器具はきれいに磨かれ整然と並んでいて、その部屋の主の性格を物語っている。
 部屋にいたのは二人の男。一目で年長とわかる白髪交じりの家長と、若い会田。先の家長の言葉を会田が引き継ぐ。
「そうですね。カマキリやコオロギを入水自殺させるやつですね」
 家長はうなずいて続きを促す。自身の研究室の院生である会田の、研究についての相談を受けている。
 この程度の話を彼がわかっているのは承知の上だ。人と話すことの利点の一つは、話者の脳内が整理されること。だから基本的な情報にあえて触れた。研究者が安易に答えを求める姿勢ではいけない。自ら考えてほしいのだ。これは家長が学生と向き合う時の基本スタンスである。
 会田も長い付き合いでそれがわかっているので、知っていることを整理しながら口にする。
「ハリガネムシは陸生昆虫を宿主にしていますが、繁殖は水中で行います。なので終宿主である昆虫に、水中に入ってもらう必要がある。水中に入ったところで体内から出てきます。この行動自体は百年以上前から観察されていますが、何をもってその行動を取らせているのかは長らく謎のままで、解明されたのは比較的最近で……」
 ここで会田はけほけほと咳き込んだ。
 けほけほ。
 けほけほ。
 げっほ、げっほ。
 咳はなかなか治まらない。家長は辛抱強く待った。
「けほ……。えっと、どこまで話しましたっけ」
「謎が解明されたのは比較的最近」
「ああ、そうでした、すいません。解明されたのは比較的最近です。それは光の感じ方を変えるというもので、寄生された昆虫は、強い水平偏光に惹かれるようになっていました。太陽光は非偏光ですが、深さのある池などの水面で反射した光には、水平偏光が多く含まれています。これに宿主は惹かれて、水面へと向かいます。他にも多くの寄生生物が存在しますが、このような宿主操作は、さらにより小さな……」
 会田はそこでまたほけほと咳き込んだ。そしてしばらく、焦点の合わない目で、ぼんやりと前方を見つめる。
 最近の若い子にありがちなことだ。集中力が続かない。
 会田は我に返ると、ためらいがちにたずねてきた。
「あ……えっと、何の話でしたっけ……?」
 家長は話を引き継いだ。
「驚くべきは、この宿主操作をする寄生生物が、単細胞のバクテリアにも存在することだね。トキソプラズマについては調べたかい?」
「ネコ科動物を終宿主とする細菌ですね。中間宿主のネズミの行動を変容させてネコに食われやすくしてしまうとか。人間にも広く感染しているんですよね」
「ああ、人口の三分の一は感染していると推定されているね。脳に到達し、ガンマ-アミノ酪酸や、ドーパミン前駆物質を作り、恐怖感、不安感の低下を引き起こす。それにより行動パターンが変わるそうだよ。興味深いのは起業経験者は感染率が高いというデータがあることだね」
「リスクを取る勇気があったのではなく、リスクへの感度が低下していた可能性があるということですね。起業なんて人間の行動の中ではトップクラスに高度な自分自身の意思決定に見えるものが、知らずに細菌なんて小さなものに操られていた結果だとしたら怖いですね」
 会田の返答に満足して、家長は相談の核心へと話を進めた。
「さらに小さいウイルスでも宿主操作が見られる。人間に対する影響があるのではないか……これが研究しようとしているテーマだったね」

「……ということで、今期GDP速報値も予想を下回っています。近年の傾向ですけど、個人消費の鈍化が続いている感じですね」
 財前は部下の牟田からの報告を聞いていた。気になるワードに質問を挟む。
「今期はもうインフレを抑え込めているのにか?」
「ええ。当初は物価高騰による買い控えが言われていましたが、それ以外の要因が大きいようです。それについては……」
 ゲホゲホと牟田は咳き込み出して、報告は中断した。
 ゲホゲホ。
 ゲホゲホ。
 ゲッホ、ゲッホ。
 いつものことなので、治まるまで財前は待つ。
 その後のセリフもいつものものだった。
「ゲホ……えっと、何の話でしたっけ……?」
 若手の質がガクンと落ちた、と財前は感じていた。
 牟田だけの問題ではない。最近入省してくる新人全体についての話だ。財前が感じているだけではなくて、同期と集まってもすぐこの話題になる。
 とにかく集中力が持続せず、すぐにぼーっとして、記憶も怪しい。だからこのように、すぐ聞き返してくる。世代全体の問題だ。
 とすると……。
 この世代は感染禍後に育った世代。一瞬脳裏に「後遺症」という単語が浮かんだが、財前はそれを打ち消した。
 あの感染禍の時期、自分も多くの人と同様に罹患を体験した。確かに高熱は出たし、喉も相当痛かったが、それでも何日かすれば普通に治った。これならインフルエンザとそう変わらないし、インフルエンザだって報道されないだけで毎年相当の死者を出している。
 その時行われていた対策は、行き過ぎだと思った。
 パンデミック初期のまだ病態がよくわかっていない時ならいざ知らず、もうその辺りもわかっている。ウイルスの変異も進んで弱毒化した。それより経済や財政に対する悪影響が問題だ。
 自粛が蔓延していて、観光業、飲食業は大きなダメージを受けていた。そこに対する行政支援が組まれていたが、これを延々と続けるわけにいかないことは明白だった。
 財前は省内のみならず、他の省にも掛け合って回った。官邸にも渡りをつけた。もうただの風邪なのだから、この感染禍は終わらせなくてはいけない。
 後遺症の報道を目にしなかったわけではない。だがそれも少ない例をことさらに取り上げているのだろうと思ったし、またそれに強く触れるとワクチン後遺症もクローズアップされると、これは他の省庁から声が上がった。
 そうだ。もうただの風邪なんだから気にすることはない。マスクなんか、もううんざりだ。そういう世論を作り上げた。
 そうして財前は、感染禍を公的に終わらせることに一役買ったのだ。
 その後、社会は日常を取り戻し、子供たちにも素顔が戻った。日常かかる感染症が一つ増えただけ。財前もその後も何度かかかったが、ただの風邪なんだから当たり前……。
 ……。
 ……。
「財前局長……?」
「あ……すまん、どこまで話したかな」
 しばらくぼんやりとしていた財前は、牟田の呼びかけに振り向いた。
 先ほど牟田の様子を見て若手の質の低下をうれいていた財前は、自分自身が部下に同様に思われているなどということは、露ほどにも考えていなかった。

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