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結婚25年で思う祖父母のこと、両親の仲

 70歳で絵を始めた人の、90歳になって描いた作品をこの前見たのよ。かせみもまだまだこれから大丈夫。楽しんで!
 この歳になって絵だの歴史の一部だのを学び始めたのに、今年入って間もなく心身共に調子をくずしてしまい、「休む」を心がけている最近の私。

 落ちこみがちな私に対して母はそんな話をしてくれる。「楽しんでね」の気持ちにウソがないのを私は知っている。

 一昨年に祖母が亡くなり、母は少し変わった。
 髪型を初めて自分で決め、服装を自分で選ぶ実感があると言う。

 祖父母の影響は強く、母は大人になるまでは厳しすぎる自分の父親を嫌悪しながら暮らしたそうだ。大人になってからは母親のじわじわ息苦しく感じるような支配にしばられながら生きた。祖母のそれは私にも影響があった。
 母は、とぼけたおおらかな態度の、私の父に助けられていたのだろう。
 

 つい最近聞いた。
 「おじいちゃんね(わたしにとっての祖父。母にとっては父親)、晩年に『あんな母親ですまなかったね』って言ったのよ」



 えっ! そうなの。

 ううーん。

 自分の夫がそんな風に自分の子供に言うとしたら、だいぶショックだ。
 母に聞いたその言葉が衝撃過ぎて、夫に「息子クンのお母さんが、私で良かったかなあ」と聞いて、ちょっぴり不審がられた。(後から説明したけど)

 今の両親の仲は良さそうに見える。二人で散歩したりカラオケ行ったりカフェ行ったり、買い物行ったり。私にはそれだけで充分良いもんだなあとほほえましい。けれど、母は時々父への口調がキツいと感じることがある。父は頑固で空気を察しないところがある。

 まれに耳にするけど、二人はできるだけ私の前でそういうやり取りを見せない。

 母方の祖父母のことも、息子が生まれる頃(祖父が亡くなった頃)から、母が少しずつくわしく聞かせてくれるようになった。

 祖父の一族が実はお城や山を持っていたのを知り、祖父は少しも恩恵にあずからず全部手放しちゃったのも後で聞いた。「ああーなんてもったいなーーい!」と頭を抱えたい。モノが何も残っていないなら、せめてこうやって記録として書いておきたい。

 一族は新潟にいたけど、家庭の事情で新潟を離れ、国鉄(今のJR)を通す仕事で北海道で暮らした。札幌でも暮らしていたけど、鉄道のためにオホーツクエリアの北見紋別に移り住んだ。北見紋別では鉄道を通すのを指揮する立場で、地元の人たちに鮭やらいただき物が多かったのだとも最近聞いた。(北見紋別からの鉄道もけっきょくなくなってしまった)

 それで認知症が強く出ていた時に、壁にかかっている衣類を見て「今日は鮭をたくさんいただいたんだなあ」なんて言っていたんだとわかった。

 でも祖父は中学生くらいで父親を亡くした。そのために母親とも離れて新潟に戻り親戚に面倒を見てもらった。そんな話もごく最近聞いた。
 

 祖父は母には厳しい人だったけど、母は今の年齢になって、自分が祖父に似ているのだと気づいたらしい。
 そうだな。気質で似ている所はあるなあ。それに考え方なんかも祖母似ではない。
 祖母はとにかく「考えない」人だった。考えないことで人を傷つけるなんて気づかないようだった。「だってそう思ったんだもん」と言っては、娘たちや私を強めの言葉で簡単に傷つけた。孫に関しては多分、私を一番の標的にしていたんじゃないだろうか。当時は気づかなかった。どうして私はこんなにも家で居場所がないのか。

 母にも祖母の影響はあったけど、元から持つ気質のおかげで、父との結婚に踏み切れたのかもしれない。そして祖父母からの影響はあっても、私へのそれを小さくしてくれたのだろう。

 忘れていたけど、よくよく思い返せば、祖父母は度々ケンカしていた。大ゲンカではないけれど言い合いをしていて、なんでそんなにカッカとなるのだろうとイヤな気分だった。
 私がいつの間にか深刻な顔をして見ていると、祖母は「かせみちゃん、これはケンカじゃないのよ。大切な話し合いなの」と言い訳していた。でも話し合いならそこまで張り詰めた声で相手を攻撃しなくて良いはずだもん。そんなの幼くたってよくわかるんだ。
 中学生で再びいっしょに暮らし始めた頃もよく言い合っていた。何で言い合っていたのか、さっぱり思い出せないし、ケンカしていたこと自体忘れていたけど。


 母はそうやって、祖父母の不仲に関して苦々しく思っていただろうに、それもできるだけ私には伝えないようにしていた。

 ただ祖父の認知症が進んだ時、祖母の対応がとても良くなかったのは覚えている。誰でも対応まずかったとかそんな経験てあると思うけど、そういうんじゃない。いつだってとりつく島もない態度や物言いだった。

 祖父は認知症ではあったけど、時々我に返る時に母に言っておこうと思ったのだろう。

 「あんな母親ですまなかったね」

 家庭内で目を覆うような虐待や耳をふさぎたくなるような暴言があったわけではない。でも母は祖母の、一見それとはわからないコントロールで息苦しかったはずだ。祖母の「考えない」「見栄を張る」が過ぎる性格や態度は、周りを、特に身内を傷つけた。

 母は、兄や私が巣立ってからも、同居していた祖父母や、父についての愚痴や不満を言いつつ強めの感情は、子供たちには見せないでいてくれた。

 私が敏感に深刻にとらえてしまうのを、母は知っている。

 そしてそんな私は、できるだけ夫と激しく言い合いたくない。
 互いにイライラする時もあるし、片方がイライラしている時には話し合わないようにする。機嫌悪いなあって思ってしばらくしたら落ち着いているし。どっちもね。

 そりゃあイヤな部分とか面倒くさい部分とかもある。それもお互いにね。私のこういう部分、イヤだろうなあとかもだいたいわかってる。でも止められなかったり。

 これまでいっぱい話し合ってきたし、ケンカもしてきた。私がプンスカ怒っちゃうと夫は深く話し合わずにさっさと謝ってくれる時もある。

 私も話し合いが必要な内容でも臆病になる時だってある。先延ばしにもする。どうしても言わなければならないことはタイミングを探って言い方にも工夫するとかしながらね。

 私は全力でエネルギーを向けられない。しっかり向き合えていないかもしれなくても。キレイごとでも良いって部分もある。

 理想的で素敵な夫婦は、わかり合う努力を絶え間なく続けるのだろうか。素直な心で率直に話し合うのがそりゃ良いだろう。どうしてほしいかを伝えながら。

 話し合う努力も必要だってわかっているけど、でもすべてのコミュニケーションにそれが通じると思えてはいない。
 
 夫と自分の築いているぬるい関係を心地良く感じている。互いにゆるしあい、リラックスして過ごせるから私はこれが良い。

* 

 祖母がいなくなった一昨年、母は77歳になった。その頃からようやく自分らしさがわかってきたと話す。

 自分の食べたい物、食べたい量、着たい服、髪型。

 まわりに聞かないと不安になることもあるようだけど、父に聞くと毎回、「今のが一番良いよ」と言うそうだ。
 本当は女性の服や髪形など、さっぱりわからないくせに。
 「どこでそんな言い方覚えたの?」と私が聞くと、父は「むふふ」と笑っている。
 そしてお世辞だとわかっている母は、そう言われて「むほほ」とニヤニヤ嬉しそうだ。

 正直な部分と率直な部分と、相容れなくてもどこかぼかした部分。ゆるしあい流す部分。互いにその加減で心地良いのならそれで良いよ。

 だから母が私に伝えたい言葉も、二人の関係性も、私はそのまま受け取ることにする。両親は楽しそうに暮らしている。まだまだ背中を見せ続けてね。

 今年は銀婚式を祝うぞー。



読んでいただいて、ありがとうございます! 心に残る記事をまた書きたいです。