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自分の夢は子供に押し付けない、を前提に、親のエゴのラインを考えてみる
全然深刻とかじゃないのだけど、すごく考えさせられた記事。
「おお……どうなんだろう」。ちょっと一息入れて考えましょう。と思ったらそのまま考え込んでしまって、コメントも残せず、記事にしてみようとの考えに至った。
どこまでが親のエゴで、どこからがエゴではないのか。
私も、子供の将来や性格に期待して、歩む道や自分の考えを押し付けるのはエゴだと思っている。そこに子供の意志を感じられないから。でも
「うちの子には自分で考える子になって欲しい。」
となると、それもエゴなの?? って考え込んでしまう。だけど確かに「そういう子になって‘ほしい’」のはあくまでも私の考えではないか。「優しい子になってほしい」と言う親御さんを見ていると、「誰にとって? 自分に都合の良い優しさを求めているんじゃ……」なんて、つい「エゴでは」という思いが湧いてくる。
親のエゴで子供がどうなってほしいなんて、私の嫌うところなのに、私にもそういう部分があったのかな。どこかマズイのかな。
三木さんの文章を最初にサラッと読み、反すうしていた。その後も少しずつ読みながら、時々止まって考えてみる。
最初に思ったのは、「子供が、そうしたくない、と思った時に、子供を尊重できれば良いのかな」と。
三木さんの記事にもそんなくだりがある。
子どもが嫌がったり、違うことをやりたがったりしたら。
そのときは、自分が最良と信じていた道を選択しないという覚悟を持っていればいい。
実は、最良の選択肢なんて山ほどあるのだから。
子どもと一緒になって、それを探していけたらいいのだろうな。
ウン。大いに共感するなあ。
でも職業や進む道を、親が決めるのをエゴだと思う私は、「自分で考える子になって欲しい」をエゴと考えなくて良いのだろうか。私には、「自分の気持ちを表現できる子になってほしい」希望もある。
そこでまず、期待と希望は別モノだと考えた。
「期待」するのは、子供にとってプレッシャーな上に、うまくいかないと親子共々、失意につながる。子供にガッカリするなんて、親が子供をコントロールしている証拠の典型。
でもどういう子になってほしい「希望」は、かなえられなくても、失望はしない。あくまでも希望に過ぎないと自覚がある。
自分の思い通りじゃなくたって、子供の意志を尊重できるのが「希望」で、親のエゴが表れるのが「期待」なのかなと考える。
そして自分のこういった考えは、どこから来ているのかを振り返ってみた。
***
自分が若かった頃。
子供の立場から、親に対して「失敗させてよ」と思った時。「ちょっとヒントちょうだいよ」と思った時。どこに違いがあるのかな。
「ちょっとヒントちょうだいよ」は、公共の場での振る舞い方など知識として。
それに対して「失敗させてよ」は、自分の考え方や生き方に対してだった。そして失敗を許してほしい気持ちからだった。
どちらも甘えだけど、子供にとっては必要な甘えなのかなと、当時の気持ちを思い出す。そしてどちらも口にできなかった息苦しさも思い出す。口にできなかったのは、安心して意見を言える環境になかったのではないか、とも同時に思い返す。
子供ができてからも、もちろん自分の子供について、自分の考えについて、何度も立ち止まって振り返って、どうやって向き合おうかと試行錯誤した。
その中に、大きな不安はあって。
息子がかんしゃくの激しい気質だったのもあって、人の心理的なメカニズムにとても興味を持った。
心のメカニズムに対しての興味は、あらゆる心理学に枝葉を伸ばし、少年犯罪心理学の本についても、わりと手に取る機会はあった。
だって、ニュースでは「そんな犯罪を起こすように見えなかった」とか「普通の家庭だった」とか言われるんだもの。
じゃあ何故? って思う。
不安だもん。怖いんだもん。
周りの家庭を見ていても、親が子供をコントロールしているなんて、すぐわかってしまう。それは今後、どう影響していくのだろう。ウチのやり方はそれと違ったら、「間違い」なのだろうか。学校の先生の思惑と違って批判されたら変えるべきなのだろうか。
何度も何度も、ちょっとした場面でその葛藤は生じ、その度に自分に問いかける。
そうした中で、自分が尊重されていると感じると、気持ちは穏やかになった。
子供への接し方だって同じ。「かわせみさんとこは、そうやって接しているのね」「それで良いと思う」と尊重されていると、私は安心して穏やかに息子に接することができた。
穏やかに子供と接しているとどうなるか。
子供の心も安定する?
かんしゃく持ちなのに?
かんしゃく持ちなのに安定するってどんなかと言えば、子供が怒りの感情を出しながらでも自分の意見が言えるってこと。
自分の意見が言えていると安定しているの? かんしゃく起こしているのに何故そう思えるの?
親に自分の意見が言える状態は、子供自身が自分の心の声をよく聞いている状態。何故それを「良い」と言い切れるのか。
心の中に、常に悲しみや苦しみ、どす黒い感情が渦巻いたまま留まっていないってことだから。
そして親に意見を言えない苦しさを自分が知っているからだろう。
でもその苦しさは個人差があるとしたら?? やっぱりエゴなのかな。
いや、思考停止して何かにまい進する危険を、私たちはこれまでの歴史や、自分の経験、目にした周りの人々から知っているはずだ。
時々、何も考えずにまい進するのも良いのではと思う瞬間もあるけれど。
でもそれが後に、どのような精神状態になるだろう。
私たちが本を読み、映画を観、漫画を読み、音楽を聴くのは何故だろう。
素晴らしいと思う人の言動はどんなだろう。
なにも子供に「素晴らしい」人になってほしいわけではない。
ただ、「頑張るだけ」の根性論ではない、自分を精神状態をどうにか少しでもラクにする方法を知ってほしい。
表面的でなく、物事の本質に目を向けて、日々考えて暮らせるのなら、どんな環境であれ自分を保っていられる。それを願うのはエゴではないだろう。
自分の意見を親に言えないまま、親を恨みながら生きている人を身近に知っている。
親の気持ちを察して先回りしていると、些細なことを自分で決められない人たちを身近に見ている。
親の何らかの期待を感じて、それに沿えない自分を感じて、自己主張できず、凶悪な少年犯罪に走った例をいくつも読んでしまった。
子供のSOSのサインを、親の憶測で親の中で勝手に解決したつもりになり、子供の行動がエスカレートした例も読んでしまった。
特に何の問題もない家庭に見えるけれど、「親の期待を感じて行動する」が危険であるかを感じる。そして「抱いた疑問は聞く」がいかに大事かを、感じる。
「疑問を聞く」は子どもが親に対してだけでなく、親が子供に対しても。責める意味の「どうして」じゃなくて、心からの、知りたい意味での「どうして」。
察し合いはすれ違いを生み、憶測は不安を増大させる。
そんな例をたくさん見聞きしてしまうと、やっぱり互いを知る重要性も強く感じる。相手を信じるには、信頼関係を構築していく積み重ねも必要。
信頼関係を構築していくと、互いの関係にも、自分の心にも、傷つきの修復が効く。
なので、やっぱり何かしらで自分を表現するのは、生きていく上で大切な作業なのだと私は考える。子供にそれを教えたい。
子供に教わることはたくさんあるし、親が教えることなんかない、って考え方があるのも知っているけれど、想いをつなぐ、と考えたらどうだろう。
「鬼滅の刃」風の考え方で締めてみた。
読んでいただいて、ありがとうございます! 心に残る記事をまた書きたいです。