子供への接し方を比較して、わざわざ伝えないで

 子供への接し方で、自信のある親もきっといるんだよな。
 親から受け継いだ「何か」の、どこが悪いのかをわからないまま連鎖させていたり、良いと信じている部分を受け継いでいたり。

 以前、その頃に人気の出始めたタレントが街頭インタビューをしていて。
 マイクを向けられた人が「今、サークル(だったかクラブ活動だったか)の先輩が理不尽なことを要求してきて腹が立つ」みたいなことを言っていた。
 それに対して「じゃあ今度入ってくる後輩に……」とタレントが返答を始めたので「そうだよね、自分はそんな風にしないようにってことだよね」と思ったら。
 「同じように自分もしたったらええねん!」って言ったので、絶句した。インタビューを受けていた子も「わあ~そうする~」って盛り上がっていた。
 人気出てきた彼女だったけど、あっという間に気持ちが冷めた。

 子供の頃の辛い思いを、連鎖させないように頑張っている親をたくさん目にしてきた。
 自分の親に育てられたようには、自分は自分の子供に接しないぞって覚悟は相当厳しい作業。自分の過去を否定しながら、それでも自分の感情と向き合い、子供の心を自分とは違うものとして接する。

 私がイヤだなと思うのは、いまだに「繊細過ぎる」「気を使ってる」と否定的なニュアンスを含めて言われる言葉。繊細であるのを良い部分なんだと思えるようになってからは、まだ月日が浅い。50年ほど生きてきて、昨年になってくらいからだ。
 HSP(highly sensitive person)という言葉を知り、本や文を読み、繊細さがどんな風にどう生かされるかを知ると、誇れるようになりたいと思えた。noteに来てからは仲間がたくさんいると知り、友達の中にもいるとわかり、皆の魅力を知ると、まっすぐ理解したいと思い始めた。
 でも長年積み重なってしまったネガティブなニュアンスをすっかり消し去るのは難しい。

 先日、息子が以前通った予備校と、同じ所に下の子を通わせている子を持つ母親友達と話していた。
 子供たちには信頼の厚い先生だけど、私は少し違う気持ち。この前、改めて「ウーン……」と考え込んだ。

 母親友達は「かわせみさんとこの息子クンは繊細だから、かわせみさんがすごく気を使って接していた、って言われた。アナタのところの上のお子さんは全然タイプが違うって言われて」って笑っている。

 何重にも「ウーン……」なのだ。

 まず息子の繊細さを、その先生はどのように捉えているのだろう。確かに息子には繊細な部分がある。ストレスに対して、体が反応しやすい面は確かに繊細だ。
 私にはあまりない「何か新しいことをする前の不安や緊張」は強くて億劫がる。「上手くやりたい」気持ちが強くて、ドンと構えられない。でも直前になっての緊張のほぐし方も知っている。
 私より図太い部分もあるし、気楽に流せる部分も多い。気が強い所も気丈夫な所もある。人をよく観察はしているけど、私の機嫌を損なわないようにとか、相手の気持ちにいち早く気が付いて気を遣うとかはない。意見もあくまでも客観的。他人がどうあれ自分の気持ちを大事にしているし、そうしかできないと自分でも割り切っている様子。

 先生が、「繊細」という言葉を使って、友人の子供と比べて評価するのは短絡的じゃないかしらん。

 確かにその友人の子供は、母親の言う通りに動いてしまえる。良く言えばおっとりしたタイプで、感情の起伏も激しくない。だけどそれが繊細ではないかどうかは私にはわからない。本人の心の中まではのぞけないでしょう。
 友人は、「ウチの子は鈍いから」と笑いつつ気にしていた。特にその次の「かわせみさんは、息子クンに気を使っている」という言葉を。
 「まるで私が気を使ってないみたいに」って。何度も言っていた。
 ああ気にしてるんだ。あの先生、自分の知っている子供の話をして、他のお母さんに「比較」の対象として取り上げないでほしいなあ。彼女も気にしちゃっているじゃないか。

 私も私で気になる。

 「息子クンに‘気を遣う’」って何よ。

 私が気を遣うとしたら、生活ペースを息子に合わせなくちゃとか、食事やお弁当など身の回りのこと、ストレスが体調に出た時に病院に連れていかなくちゃいけないかの判断とか。それだけでもずいぶん私には負担だったけど、それは親として当たり前のことだろう。

 私が先生の前で、息子に何かそのような態度をしていたのを思い返してみる。息子が答えるべき質問に口出ししないようにしていたくらいだろうか。

 志望校について「私はここに行ってほしいと思っているんですけど」とかも言ったことはない。
 そういうのを先生に言っても仕方がないからだ。先生から言ってやってとか?? 筋の悪い回りくどいやり方、と私は思うからそういうことはしないだけだ。

 私の提案は、息子に直接する。

 ここに行ってくれたらいいなとの思いは何度か伝えた。「それでも〇〇(息子)が父さんや母さんの気持ちに応えようとか、気を使ってそこを選ぶことはないよ。何故そこに行きたいのか説明してそれが納得できるものだったら、母さんはそれを全力で応援する」と言った。何度か伝えて、それでも息子は自分の意見を主張したから、私はくどくどと自分の思いを言わないように我慢はした。

 息子が幼少期から、「自分で物事が決められない」大人になってほしくないと思っていた。
 目の前で、奥さんに料理のメニューを決めてもらうダンナさんを目にした。
 私が頼んだわけでも、その人に甘えているわけでもないのに、勝手に何かを伝えて「くれて」いる友人を目にすると、違和感をおぼえた。
 自分でできないみたいじゃないか。

 人と違っても自分の気持ちを確認しながら、自分の人生を生きている実感を持てないと、自我が崩壊しそうで。
 自我がないと周りの判断が気になる。親の顔色を気にする。身近にそんな大人や親戚たちを目にしてしまったから、気にかかる。

 身に危険の及ばないことや人を傷つけない。最低限にしてとても大切なルール。それ以外は、できるだけ選択の機会を与えたい。少し変でも、結果に不満を持って大泣きしても良いよ。いくらでも愚痴も大泣きも相手するから、自分で選んでね。

 だから先生が質問してきた時に、私が答えなくてはいけないこと以外は、息子に聞いた。

 友人であるそのお母さんは、確かに何でもちゃっちゃと決めるタイプ。私に対してすらそんな時がある。強い信頼関係を築いている親しい間柄ではないから、関係を保つために私は「じゃあまあそうしましょうか」って動く時もある。でもいくらそれが「正しいこと」であっても、私は内心困惑している。だって自分で判断できるから。そのように行動して喜ぶのは、多分アナタだから。

 子育だってそうなはず。
 世間的に見て「正しいこと」を、子供に指図しても、世間に対して親が満足するだけの場合が多い。

 私が子供に選択をさせるのを、「子供に気を使っている」と思われるとしたら不本意だ。

 それは子ども自身に対する気遣いではなくて、子育てをする上での私の考えだから。

 子供を一人の人間として見たいなら当たり前ではないだろうか。

 友人は、子供が離れて暮らしても毎朝電話で起こしていると言う。
 その母親は、その責任を感じているのかもしれないし、子供もそれを嫌がっているわけではなさそうなので、関係性としては成り立っている。友人の私には特に口をはさむ部分ではない。

 私は息子に毎朝電話しない。頼まれたらある程度はするかもしれないけど、それで遅刻したり単位を落としたりしたら、息子の責任だ。先生に「あの子はちゃんとしてない」って思われたって、その先生が夫や私をどのように思ったって、息子の人生だ。
 そのやり方が「正しい」とも思っていない。私の「考え方」なだけで。
 
 友達の子供さんたちも自分の子も、今のところそれなりに何とかかんとか暮らしている。親子関係もそれぞれ良好。
 彼女のやり方も、私のやり方も、それぞれの考えがあるなら良いんじゃないか。

 私は何年親をやっていても、自信なんか確実なものとして持っていない。多分友人である彼女もだ。何でもちゃっちゃと決めるような彼女であっても。自分の子供にはこうしてきて、とりあえずここまでこんな風に育った、ってだけで、自分だけの影響でももちろんないだろうし。

 こう育てられたからこうしよう、ああ育てられたからそうしないどこうなんて、簡単にそれを実行できるわけでもない。
 そりゃそんな風に思える人もできる人もいるんだろうけど。試行錯誤しながら子供と接して、これで良いのかな、良いんだよななんて、心細い気持ちが拭いきれないながらもその場にいる人だって多いはず。

 「どんな子だ」「あんな接し方だ」なんて、相談されたわけでもないなら、あれやこれや評価しないでほしいんだ。


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読んでいただいて、ありがとうございます! 心に残る記事をまた書きたいです。