幾つになっても、ずっと私は先生の生徒
その日、運転しながら、ひどく傷ついた心で、泣いても泣いても涙が溢れ出てきていた。
何故こんなに腹立しさがおさまらないのか。こういう時、ホルモンのせいとか言ってほしくないんだよなあ。きっとそうなんじゃないかって自分では思っているけど。
家に着いてもまだ玄関先で涙が流れて仕方ない。
ポストを開けると大きな袋が入っていて、印刷の文字ではない宛名書き。「誰からだろう」と、涙でかすんで揺れる景色の中から、差出人の文字を見る。
中高生の時、お世話になった先生からだった。
開封すると冊子が入っていて、パラパラめくると先生の書いた過去の文章が連なっているようだ。紙が一枚落ちてきた。
「お元気ですか? あなたのことも書いてあります」
***
中学一年生の時から、私たちの学年を受け持つ社会の先生。
特別な存在だったわけではない。
中学一年生、入学して間もなく文化祭の時。アンケートの集計を出し、廊下中に貼ってあるその結果を見て、「面白いなー」と新聞部に入った。別に何かについて書こうとか野心があったわけではなくて。でも当時から「誰かが入っているから一緒に」なんていう意識も低かったため、自分一人の意志で良いのだった。
で、新聞部の顧問もその先生。
部活は熱心ではなかったので、通学に1時間半近くかかり、あまり身体が丈夫ではない私にとって、家に帰ってゆっくり休む時間があるのはありがたかった。
そんな風に過ごしていたため、中学生の間、先生とそれほど関わりがあったわけではない。担任としても受け持ってもらわなかった気がする。
ただ生徒に媚びる様子もなければ、感情まかせに叱るでもなく、時々ピリリとこちらのだらしなさを刺激するので、生徒からの信頼は当時からあったように記憶している。あの先生がそう言っていたから、じゃあまあ聞いとかなくちゃ。幼稚な私たちのようなタイプから大人びたませたタイプまで、皆そんな態度だった。「あの先生が言うなら」。
高校生になったらその先生が担任になった。
社会の授業の中でも「政治経済」がその先生の担当。なかなか骨っぽい内容の授業を積み重ねてくれたものだった。
普段は気さくで、終礼の時間に、先生はちょこちょこ話をしてくれる。ある日は「三人目の子供ができたんだけど、名前で迷っているんだよ」と言ってきた。幾つか候補を黒板に書く。
でも私たちは特に関心がなかったため「先生~早く帰りたい~」「え~知らんわあ~」「先生、自分で決め~よ!」と笑っていた。「おまえらは冷たいなあ」先生は頭をかきかき、困る。「それが良いんちゃう?」とか皆、早々に決めて終わらせようとしていた。私も「早く帰りたい~」と発言していたため、皆の適当さに笑ったけど、でも皆で選んだ字が良いようにも思った。それは本当だ。
ある日は、体育祭で優勝したチームが良からぬポーズで行進した時「お前らはあの意味がわかっているのか」と言ってきた。安易に「カッコいいから」だけで真似るなと考えるよう促した。怒ってはなかったけど、ちょっとは考えろとそのポーズの意味を簡単に説明し、私たちは静まり返って反省した。
ある日は、やはり「○○っていややわあ~」と言う生徒に「お前らは、○○の本当の意味を考えたことあるのか」と聞いてきた。口々に言っていた生徒たちはやはり静まり返った。
先生はそうやって問いかけてくる時、責める口調ではない。私も気を付けていて通じるところがあるので少しは気持ちがわかる。親の「どうして~なの」って、子供に対して実は質問じゃなく、そうしないように責める意味で使う人も多い。私は単純に疑問形として、本気で聞いている。どんなに幼くても自分の頭で考えてほしいし、こちらもその考えを知りたい。先生もそういったところに意識的だったように思う。
私にとって、先生との個人的な思い出は、「皆同じって気持ち悪い」とのタイトルで、新聞の投書欄に載った時。友達のZちゃんが皆に「見て見て! すごいと思わん?」と記事を切り抜いて持ってきてくれた。
それを先生は、朝礼の時に皆の前で読んだ。
そしてその記事を長い間、職員室の壁に貼っていてくれた。
新聞部では、私が副部長になったため、顧問でもあったその先生と会話しなければならない。やり取りが増え、勉強の方では落ちていく成績にも「もっと良い点数が採れるだろう」と言われ、あからさまに反発心を抱いてしまった時期もあった。でも先生は平気そうで、卒業してからも年賀状のやり取りは続いた。
一度、同級生たち皆で学校に遊びに行った時、私の記事をまだ貼っていたので、「先生まだ貼ってる!」って笑った。
そのうち、段々と年賀状も途切れ途切れになっていく。もう良いかと送らなくなっていた頃、久しぶりに、投書した記事が新聞に載った。嬉しくて、この気持ちを誰かに伝えたいと思った時、先生の顔が思い浮かんだ。
コピーして近況と共に記事を送った。
内容は地震と原発事故とその影響について。日々の暮らしについて。
手紙には、息子の個性で大変な思いをしていることや、先生のいる中学高校がいかに良い環境だったかを、息子を通して再確認できたこと。
返事が来た。先生は、新聞部の生徒たちと既に一度、岩手の方にボランティアに来ていた。いつか私の住んでいる地方に行きたいとも。
その時に私の手紙の内容を学年だよりに書いてくれたのだった。
そして次の夏、先生は本当に会いに来てくれた。奥様を伴って。
私の方は、夫が仕事で参加できなかったため、息子を連れて行った。
先生と会って何話そう。ものすごく老けて雰囲気変わっていたらどうしよう。太っちゃってたら? それとも病気じゃないかと疑うくらいに痩せていたら? 私、顔に出ちゃうよなあきっと。道中ちょっと心配しながら向かった。
でも先生は頭が白くなった以外は全然変わらなかった。
「ひゃあ~先生!! 変わってない!」
私は一気に生徒に戻った。
積もる話をしたかったけど、お喋りな息子のために、私は話したいことの半分も話せたかどうか。先生ご夫妻は、男の子三人育てただけあって、ちょっと変わった息子に大変寛大なのであった。ニコニコしながら「それで、それで?」と話を聞いてくれる。先生の奥さんの話まで横取りして話し始める息子なのに。
奥さんもとても知的でさっぱりしていながらも、おっとりと優しそう。いかにも裏表もなさそうで、こんな方が近所に住んでいたら良いのにと思ったくらい。先生とよくお似合いの奥さんだと思った。
その後、また新聞の投書欄に載ったコピーと共に、私と会った話を学年だよりに書いてくれたようだ。その学年だよりを送ってくれた。
子供についての相談にも返事をくれた。今も大切に持ち歩いている。大切に持ち歩いている、友人や知り合いからの励ましの言葉が幾つかあって、先生の手紙もそのうちの一つ。
その後先生は定年退職し、2年半が過ぎた。
少し時間ができたのか、自分の学年だよりで書いたものや、考えた内容を大きな冊子にまとめていた。
そこには以前学年だよりで、他の先生方とリレーエッセーした内容も載せてある。その先生含め、内容を読んでいると、多くの学校の先生方がこのような考えになれば良いのにと思える。そんな素晴らしい学校に通っていたのだなあとしみじみした。
そして、私との手紙のやり取りやご自身の考えを一言書いたものを、また載せてくれていた。以前の学年だよりからの抜粋だけど、感激した。改めてそれを一文字一文字、噛みしめるように読む。
なんて幸せなんだろう。私って幸せ者だ。
もうすっかり暗くなってしまって、玄関の電気の明るさだけが家の中で目立つ時間。しばらく読みふけって、いつの間にか涙が引いていた。辛くて仕方なかった気持ちがすっと落ち着いていく。
頑張れ、ワタシ。
先生、まだ私は先生の生徒らしいですよ。
出会えてよかったです。
お礼の気持ちを手紙に書こうと、すぐに机に向かった。