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世の中、良いモンと悪モンだけじゃない~「エンドゲーム」を観て~

 幼少期、兄と一緒にテレビを観ていて、よく兄に「この人、良いモン? 悪モン?」と聞いていた。

 兄とは4歳離れていて、5歳くらいの私は、戦隊ものやヒーローもの、アニメやちょっとした推理が必要なミステリーもの、怖くなるとすぐに兄に聞いていた。そりゃ9歳や10歳くらいの兄なら、得意げに教えてくれたものですよね。「良いモン」だと言われたら安心して観たし、「悪モン」だと言われたら、へえそうなんだ怖い~警戒しなくちゃと思って観た。
 何年もそうやって甘えていたけど、ある時突然怒った顔で言われた。「そんなのわかんないよ、良いモンかも悪モンかもしれないでしょ」。
 兄が成長した瞬間だったのだろう。

 「わかんない」「どちらもかもしれない」ってのは真実だ。
 でも言い方ってものがあるだろう、とちょっと今でもムムっとしてしまう。まあ兄妹間の会話だからそんなものなんでしょうけどね。
 
 いずれにしても、ストーリーを観ていて、良い者か悪者かってわからない場合もある。どんでん返しもあるし、どちらとも言えない場合がある。

 最近、いやおそらく今後ずっと、スタン・リーを敬愛する限り、私は生きている限り、MCU(マーベル映画作品)を好きでいるつもりでいるが、MCUは、まさにその良いモンと悪モンとの境目の、曖昧さを見事に描いている。もちろん観ている側としては、地球を守るとかヒーローに肩入れするため、そちら側が良いモンで応援するのだが、「ヴィラン(悪役)」がただの悪モンだけで終わらない事情や、悪事に手を染めるまでの過程だったり心理状態だったりが描かれており、完全に憎しみを抱ききれない。

 ただスタン・リーは問い続けている。「本当の正義ってなんだ」「正義のために戦うのは本当に正義なのか」。そして「目の前の困った人を助けるのが真のヒーローだ」と。
 それは、悪モンを「やっぱりダメなんだよ」と納得させられる言葉と考え方。さらには「やっぱりダメなんだけど、悪モンにも事情があったんだね」と再度考えさせられる。
 
 MCUは、「アベンジャーズ/ インフィニティウォー」と「アベンジャーズ/ エンドゲーム」で最終的に戦う相手である「サノス」を、この10年、少しずつ登場させていた。
 サノスには、強い信念があった。「宇宙(地球を含む)に人口が増えすぎたから、半分にすべきだ。増えすぎたことで起きた弊害があるではないか」と。それは一貫していた。一貫していたし、確かに人口増大による人々の暮らしは資源を含めて問題がある。でも、それによって彼は、この宇宙で生きる者たちの殺戮を繰り返していた。半分にすべき、って、半分を無作為に殺すことと言うのだ。いくらその信念に少し理解はあり、その気持ちにも行動にも一貫性があったとしても、目の前の人たちを「明らかに楽しみながら」殺し合うのを見ているその姿は、私には愛情を否定されているようで、気持ちとしてはどうしようもなく許せない。

 子育てだってそうだけど、子供に限らず人を育てるのは、―そして自分の成長に対してもー「待つ」ってとても大切。人は少しずつ何かをより良くしたくて一生懸命考えている。それを省いてイエスマンを周りに揃え、違う意見に耳を傾けることなく、「自分が正しい」とばかりに自分の正義だけを信じているのは、私はとてもじゃないけど共感できない。目の前の愛している家族が殺され、消されるって、それが一人の「僕の信念だから」で納得できるでしょうか。私はいやだ。
 
 MCUでは、ヒーローたちの、それまでの色々な作品での「良いモン」ではなかったような人間性をそれぞれに感じます。ダメな時もある。落ち込む時。挫折する時。もう誰にも会いたくない時。傷つけてきた時。過ちをおかした時。恋愛がうまくいかない時。友情がうまくいかない時。親子関係がうまくいかない時。感情的になっちゃう時。ウソをつく時。揺れる時。迷う時。泣く時。怒る時。ああそれ今ダメだよ!って瞬間がたくさんある。
 彼ら一人一人の成長物語を、10年に渡って見せてもらうのだ。
 各ヒーローたちの話の伏線回収は、「エンドゲーム」で感動を呼ぶ。あの映画のあのセリフ! あの映画のあのシーン! あのメンバーたち! 

 今回は、一人の女性について書きます。
 「ネビュラ」と言って、今回の倒すべき最強の相手サノスの養女。彼女は「ガーディアンズオブギャラクシー」で出てくるキャラクター。原作でも、とても重要な位置にいるそう。
 「ガーディアンズオブギャラクシー」は、1,2があって、そこで彼女は最初、とんでもなく冷徹で表情のないキャラクターとして、同じく幼女である姉ガモーラを殺そうと出てくる。そして、「ガーディアンズオブギャラクシー」のメンバーたちやガモーラたちを少しずつ理解していき、友情だとか感情だとか温かいものを、非常にゆっくりとですが取り戻していく。
 
 *「エンドゲーム」のネタバレあります。



 今回、サノスを倒すために、ネビュラも立ち上がるが、その時に彼女は、過去の自分と鉢合わせしてしまう。でも過去の、姉のガモーラと鉢合わせした時に、彼女の心情を既に理解している現在のネビュラは、現状を説明し、ガモーラに「サノスを倒さなくてはならない」と説得します。ネビュラが和解に応じたところもすごく良いのだが、過去の自分を殺すところはショッキングで、そして精神的な意味でも過去の自分を完全に乗り越えたところを証明してくれた。いかに「父親に認められたい」だけで心を支配され、自分で考えもせず、判断もできていなかったかを、彼女はもう知っているのだ。

 この映画は、最初のシリーズから登場している、アイアンマンであるトニースターク、キャプテンアメリカであるスティーブロジャース、ソーの三人の成長物語でもあるが、各ヒーローたちの成長や心の変化も一つ一つわかるのが、感情を揺さぶられるところだ。

 もう一人、「ガーディアンズオブギャラクシー」で言えば、アライグマである「ロケット」も相当な成長を遂げている。「1」では、まだまだ未熟だった彼がエンディングで仲間を大切に思い始め、「2」ではまだちょっとした悪事を働くいい加減なところがあるものの、彼は自分の罪を感じ、ヨンドゥと本気の感情を交わし、心のバトンを渡されている。ヨンドゥとロケットのやり取りは、父と息子の象徴のようで、迫力に圧倒され心を動かされる。

 そのロケットが、「エンドゲーム」で、とガーディアンズのメンバーを思って「家族を取り戻す!」と力強く宣言している。ソーに対しても、父親のように落ち着いて振舞うところなんか、すっかり成長したなあと思い知らされるのだ。

 ネビュラもロケットも、どちらも、幼少期の私にとったら、最初は「悪モン」だった。でも二人は変化し成長していく。その様子は、何かがあってドーンと大きく変化するみたいに、わかりやすい変化ではなく、少しずつ行ったり来たり揺れながら。そして、幼少期の私が言うところの「良いモン」となっていく。これを「良いモン? 悪モン?」と聞かれても、一言で表せない。それが自然の姿として共感できる部分だし、観る側からも成長を感じられるところだ。

 「アベンジャーズ」の10年間は、彼らの成長と共に、自分の成長も感じられる10年間。
 派手なアクションや痛快なシーンばかりでない、愛すべきヒーローたちの人柄、心の機微、表情、変化していく姿を丁寧に描いていくMCUを、これからもずっと応援していきたい。


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