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「私が寂しい」のとは、ちょっと違うけど

 自分の子供が苦しい状況になった時、「替わってやりたい」って言う人がいる。
 自分の子供が手を離れる時、「寂しい」って思う人がいる。

 よく耳にする。

 でも、私はまったく一緒の気持ちではなさそう。

 自分の子供が苦しい状況になった時、苦しいのが辛そうで見ていられないのは確か。そういう目にあわせたくないために自分のできる限りで、手を尽くしたい。
 それでもそれが子供にとって必要な経験であるのなら。親が干渉するところにないなら。我慢して、「寄り添う」にとどまるけれど。
 必要ではない経験だとしたら、救ってやりたい。その場からできるだけ離してやりたいと頑張る。
 怖がっていたら、怖がる表情を見るのが辛いから、そんな表情をさせないように精一杯頑張る。その場から離す。怖いものを見せないように、覆い被さる。

 だけど、結果的に身代わりになってしまったように見えたとしても。「替わってやりたいから」とか、自分を犠牲にしようとして、かばったのとは違う。
 そんな感情にさせたくない、そんな表情見るのが辛い、その場から離してやりたい、という感じ。かばうとか守るとかとはちょっと気の持ち方が違う。

 息子が、病気の時も、アナフィキラシーショックで気を失った時も、「替わってやりたい」の気持ちとは違った。「早く目をさましてほしい」「私自身の幸運とか起きないで良いから」「元気になってみんなで笑いたい」と強く思った。

 親は本能として、替わってやりたいって思うものなのかな。私は母親として薄情なのかな。
 息子が幸せで、夫や私が楽しそうに暮らしているところを見せたくて頑張る。両方幸せが良い。って願うのは、欲張りなのかな。



 息子が5月から、いよいよ一人暮らしを始める。

 「寂しくなりますね」って他の人に言われると、「確かに」と思う。切なくて感傷的になる。でも正確には「寂しい!!」とはちょっと違う。夫は既に寂しがっているけど、私の「寂しいなあ」は多分、夫ほどじゃあない。直前とか、別れ際とか、日常が始まったら寂しいと感じるかもしれない。

 今はまだ実感がわかないだけなのかな。息子の新しい生活の準備で気持ちが忙しい。私自身も、息子のいない日常をどうすごすかに思いを巡らせている。


 ただ、息子にやってくるであろう気持ち。「僕、一人だ」と息子が、ふと実感する夜。そんな息子の気持ちを想像すると、すごく泣きたくなる。
 息子は一人で部屋で寝るようになってからも、「寝る直前て寂しくなる日がある」って言って、私を部屋に呼んで話をしたものだった。あるいは私たちの寝室のベッドにダイブして、喋りに来る。寝落ち直前に「あー限界。じゃあおやすみぃ~」って自分の部屋に戻っていく。
 もうそれは今でもだ。息子は寝る間際までお喋りしたがる日がある。息子は一人の時間もすごく大切なタイプだけど、寂しがりで、お喋り大好きなのだ。
 
 大学受験は、二校とも、1~2泊を一人ですべてやりこなした。でもテストがあったし、ホテルだから特別な空間。
 一人暮らしを始めたら、それが日常になっていくから、きっと「寂しい」って、丸まって寝る夜もあるだろう。
 そんなの誰だってあるはずだ。自分だって。そういう夜を受け入れてきたのに、息子のその様子を想像し、気持ちを思っただけで、もう泣きそう。そんな思いを、できればさせたくないのに、人は「そんな思い」をしなければならないのだなあ。

 ああだめだ。泣いちゃう。別れ際に私はきっと涙をこらえて笑顔でバイバイするだろう。でも離れてから泣くとしたら、「私が寂しい」んじゃなくて、息子の胸の内を思って泣いちゃうだろう。
 親ってみんな、自分のこんな気持ちを受け入れているの?

 これに、プラス「替わってやりたい」とか、自分自身の寂しさなんて感情が加わる人たちがいるんだ……。
 子供を想う親の心って、強くて偉大だって改めて思うんだよなあ。みんなすごいよ。


#エッセイ #子供 #一人暮らし #夜 #親 #気持ち #寂しがる

読んでいただいて、ありがとうございます! 心に残る記事をまた書きたいです。