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母親と娘の関係を考えた~「クルエラ」~

 ヴィランが誕生する物語って、ちょっと前に「ジョーカー」が話題になりましたね。
 今回は、「101匹わんちゃん」の悪役で有名な「クルエラ」が、「クルエラ」として誕生するまでの話でした。

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 ディズニーの映画だからなのか、暗く重たくなりすぎず、激しい暴力もなかったので、その辺は安心して観た。互いを思い合う仲間たちがいたのも救いがあるように感じた。クルエラにも憎みきれない魅力があり、ともすれば応援したくなる。
 でも「ジョーカー」の時もそうだったように、「あんなひどいことされて、こんな環境で、そんなことがあったから、そうもなるでしょう?」ってのは、私は納得しない。苦しくて辛くて絶望して、そんなの私の想像なんか及びもしない世界だってわかっているけど、それでも。連鎖させないようギリギリで生きている人たちだってたくさんいるはずだから。

 今回も「そうかあ。だからヴィランになったのかあ」とはならない。でもつらい過去があったのは、よくわかった。

※かなりのネタバレあります。

  そもそも「101匹わんちゃん」が童話であると思い返すと、親子関係を文学的に解釈する楽しみがあったって良いだろう。
 観ながら、「母親越え」の解釈を楽しんだ。

 12歳の頃に、優しくて大好きな母親が殺される。
 「クルエラ」となるエステラは、それまでそんな母親の期待を裏切らないよう努力する。気質は全然違うけれど、できることなら母親の望むように自分をコントロールしたい。可愛い娘でいたい。だって母親のことが好きだから。

 でも母親は殺される。

 エステラが自分の母親を殺されて、次に自分の目の前に来た「憧れの存在」は、母親を殺した「憎むべき存在」だった。

 エステラにとって実際にどちらも母親ではあったけど、象徴として、つながった同一人物、と考えると面白いなと思った。

 思春期に入る頃、娘にとって母親は、超えていきたい存在となる。
 成長の過程で、それまでの従順な自分や、それを願う母を自分の心の中で殺し、自我を認識し主張し始める。反発したり憎んだりの葛藤を経ながら、まだ幻影の残る母親と自分を切り離していくものだろう。
 
 そうやってその年頃を超えて成人した頃には、母親を超えていき、母親とは違う自分を表現していく。

 一方、母親側にとっては、成長してきた娘は、外に向かって共に闘いたい相手であり、ライバルや嫉妬の対象にもなり得る。
 「母親である自分を超える」事実を受け入れたくない葛藤もあるかもしれない。
 自分とは似ているようで違った存在の娘を、母親が認めて応援するのが、娘の成長を健全に促せるし、母親にとってもそれが自分の成長につながっていく。だけど時々、自分より幸せになることを許さない母親がいるように、エステラの母バロネスは受け入れられなかった。むしろ娘を殺そうとした。

 母親を超えられたのか、いや母親と結局同じなのか。わからないけれど、心の傷を深く負い、きっとそれを消化しきれなかったから、エステラはクルエラとなったのかもしれない。   

 そして自分の解釈とは別に、ファッションや音楽がカッコ良く、エマ・ストーンの演技が圧巻の映画だった。


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