【第9話】旅立ちの時 『彼方なる南十字星』
日本の高度成長期。自作ヨットを操り、命がけで太平洋を渡り、南十字星を見に行った3人の若者の実話にもとづく冒険物語。***
1973年11月29日。その日、僕は就職面接に向かうため、熊本駅から大阪駅に向かった。
今はなき夜間列車に乗ってだ。夜間列車「明星」。1970年代当時は、夜間列車のB寝台に乗り、東京や大阪に旅行するのが一般的だった。
夜8時過ぎの熊本駅発。大阪駅着は30日早朝だ。
大阪駅に着いた。駅の売店で、パンと牛乳を買い込み構内で食べようとした時だ。掲示板に貼ってある号外が目についた。
「熊本太陽デパート火災!死者100人!」という見出しだ。
就職面接に出発するその日に、故郷熊本でそんな大事件が発生しているとは…。家族や親類、友人は無事なのか?
当時は携帯電話などはない。公衆電話から自宅に連絡を取り、母親の安否だけは確認できたが、親類や友人の情報までは分からなかった。
国鉄と山陽電鉄を乗り継いで、明石市の株式会社明石ヨット造船本社事務所に到着した時は、11時に差し掛かる時間だった。
明石ヨット造船株式会社。初めて入った造船工場では、今まさに誕生を待つヨットやクルーザーの造船作業をワクワクして見上げながら、事務所に入った。
明石ヨット造船の濱田社長は、かっぷくの良い人だった。面接に来た僕に対して、とても親近感を持って接してくれた。何より熊本から、しかも雑誌の求人広告を見ての応募という縁に感動したらしい。
面接では、とにかく僕たちが今育んでいる夢について、熱く語ったことは言うまでもない。濱田社長はすこぶる感激し、その場で内定の許諾をもらった。
「海の男は熱いな…。夢の実現を応援するよ。」
夢の実現を応援するよ…。この言葉をかけてもらったのは、おそらく4人目だ。熊本日月新聞の遠藤記者、初めてディンギーに乗せてもらった島野さん、城田先生、そして濱田社長。
今思うと、夢というのは様々な人に支えられて実現できるものだと、はっきりと断言できる。
僕は、高校卒業と同時に入社することを約束して熊本に帰った。
就職の内定を学校や先生の支援もなく決めてきたという話に、担任は最初驚いていたが、本当だということが判明した時には、にっこり笑っておめでとうと言った。
しかし、今でもその時の祝福の言葉は、社交辞令的で心が篭っていない響きだったと感じている。
偶然かどうか分からないが、おそらく必然なのだろう、翔一も大阪に就職を決めた。
翔一は勉強もできたから大学に進学するものだと思っていたが、大阪にある大手家電メーカーの工場に就職した。学校推薦での就職だったらしい。さすが翔一だと思う。
しかし、なぜ大学進学を選ばなかったのかは、いまだに分からない。長い付き合いだが、今でも尋ねるつもりもない。
とにかく僕たち3人は、高校卒業後は関西に集うことになったのだ。何の因果かなと本当に思う。
しかし、還暦を過ぎた頃から、人生には偶然などなく全てが必然なのだという結論を抱くようになったことを、僕は否定できない。
年が明けて、1974年になった。卒業まで3ヶ月だ。
思えば、本当に充実した高校生活だった。ヨットがあった。何より、夢があった。目標があった。生きる目的もあった。
大学受験を否定するつもりは全くない。だが、大学受験そのものを生きる目的としているような同級生に比べたら、本当に一生懸命に走ったワクワクする高校生活だった。
どっちが幸せか?間違いなく僕たちだ。
だが、まだ夢は誕生したばかりだ。「手作りヨットで太平洋を横断し、南十字星を見にいく…。」この壮大で魅力あふれる夢。
この夢を大切に育んでいこう。そして絶対に実現させる。絶対に…だ!見ていてくれよ、お父さん。
高校の卒業式を迎えた。翌々週には、兵庫県高砂市向けて出発する。
卒業式の後、学校の中庭で友人たちと話ふけっている時、ふと河合百合子と目が合った。
僕が微笑むと、彼女も微笑み返してくれた。ちくしょう、かわいいなあ。
河合は僕のところに近づいてきて、話しかけてくれた。
「京都の大学に行くことにしたの。教育学部。小学校の先生になるのが今の私の夢。」
「京都かあ。大学合格、本当におめでとう。僕は兵庫県の造船所に就職するよ。」
「知ってたよ。安藤くんが自分で就職を決めてきたという話、結構女子の中で話題だったんだから…」
全く知らなかった。河合の話では、僕たちがヨットを操り、小さいながらも冒険をしていることは、女子の間でちょっとした英雄伝だったらしい。
「京都と兵庫県なら、たまには会えるかも知れないね。」この嬉しい言葉を、僕は内心小躍りしながら聞いた。
「うん。そうだね。楽しみだね。手紙を書くよ。」
河合は、京都のおばさんの家に居候しながら大学に通うらしい。警察官の父親が、娘の安全のために京都の大学を熱心に薦めたことは、容易に想像できた。
1974年4月1日。僕は兵庫県高砂市で一人暮らしを始めた。
ここで、僕たちの愛艇「ドルフィン号」について書いておこう。
卒業を迎える1ヶ月ほど前に、ドルフィン号は熊本産業大学のヨット部に所属する学生に譲ることになった。
城田先生から譲り受け、ヨットの素晴らしさを心ゆくまで教えてくれたドルフィン号。
5mJOGという合板製の、小さく華奢な造りだったが、友情に勝る愛情を僕たち3人が注いでいたことは言うまでもない。
熊本産業大学の学生は、僕たちが城田先生から購入した金額と同じ30万円で購入してくれた。
30万円を一人10万円ずつ分けた。僕は、ドルフィン号を購入するときに母親から借りていたお金を10万円から支払い、残金の2万3千円を握り締めて兵庫県に旅立つことになる。
ドルフィン号を売ったお金に僕は、救われたのだ。最後の最後まで、僕はドルフィン号に様々なことを教えてもらった。
その後、ドルフィン号は「KSDY3」(おそらく熊本産業大学ヨット部の略名)と船名を変えて、学生の練習艇となり、最後は合板の腐敗が進んでスクラップになったと聞いている。
城田先生に乗せてもらった最初の日。真っ白いカラーにブルーのラインが2本引かれた美しい姿のドルフィン号を、僕は今でもはっきりと脳裏に浮かべることができる。
ありがとう。ドルフィン号…。
熊本を立つ日。母親と友人が数人、熊本駅に見送りに来てくれた。
今思い出すと、母は涙ぐんでいた。兄たちも独立していたから、一人になる寂しさと末っ子の僕を心配する想いが複雑に交錯していたのだろう。
母は両手で握手してくれた。笑って送ってくれたが、目は真っ赤だった。
僕はというと、これからの生活と夢の実現のことしか頭になかった。
夜行列車に乗り込み、一路兵庫県高砂市に向けて旅立った。
2万3千円の現金と、ジーンズにシャツ、数枚の下着を入れたバッグ、それだけを持って。
さよなら皆さん。さよならドルフィン号。さよなら城田先生…。さよなら熊本の海。
夜行列車のB席寝台の中で、とめどなくあふれる涙。なぜだろう?夢を叶えるために、愉しみしかあろうはずがないじゃないか?
18歳の僕には、夢だけが若いメンタルを支えるパワーを持っているはずもない。
これまで支えてくれた人たちに対する感謝の気持ちが、きっと涙を誘い続けたのだろうと今でも思っている。
〜第9話「旅立ちの時」完 第一章「夢の誕生」完
次回「夢を育む若者」
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