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子どもというより曾孫なのかも

このまえ、noteのヘッダーに使う写真を探そうと思って、こどもが生まれてからの写真を一気にバーっと見ていた。すると、こども、こんなに可愛かったっけ?思い出って美化されるんじゃないの?美化された記憶の中のこどもより写真のこどもがかわいいってどういうこと?と思って自分にびっくりした。さらに、何歳ごろどんな絵を描いてたか大体覚えてるのに、写真で見ると、この歳でこんな絵描いてたんだ、めっちゃ上手いじゃん!て目がうるうるしてきたりして、どうしちゃったんだ私、と思った。これは私が歳をとったからではないだろうか。

こどもを産んだときすでに35歳だったから、子どもだけど半分孫みたいな気分だった。生きてれば満点、存在しているだけで宝、みたいな感じ。
こどもが小さいとき、実家で祖母にわざわざ「ちょっと」と呼ばれ、何事かと思ったら、
「あのね、あんたね、この子は普通じゃなくかわいいだで、あんた、誘拐されんように気をつけにゃいかんよ。ほんとに気をつけんよ。ね?」
と真剣な顔で言われた。何言ってんだろ、と思いながら「うんうん」て返事はしておいた。父と母が、ばあちゃん何だって?って聞くから言われたまま伝えたら、二人とも、なんだそれ?って感じで笑ってたんだった。
だけどちょっと待って。今の私、あの時の祖母の気持ち、分かるかも。そうだよ、こんなかわいいのがそこら辺にいたら連れて帰りたくなってもおかしくないんじゃない?

私まだ50前だけど、親バカとか、孫は目に入れても痛くないとか通り越して、ひいおばあちゃんの気分まで来てるんだわ。それを聞いた夫は、ププッと笑って、こどもに「よかったな!」と言っていた。こどもが生まれた頃、「愛情が100%こどもに行ってまってるやろ!」と憤慨してた夫も成長したようだ。

10年経って見るとこんなにかわいいのなら、もっともっとたくさん写真を撮っておけばよかった。動画も撮っておくべきだった。音声も残せばよかった。写真を見れば脳内で記憶が映像で再生されるけど、たぶんその記憶より動画の映像の方がかわいく見えるんじゃないか?

私の父はカメラが好きで、当時にしてはたくさん写真を撮ってくれたけど、私が写真を撮られるのが好きじゃなかったので、私の幼少期の写真は大概ムスッとしている。しばしば目をつぶっている。しかも寝癖もひどい。現像して「またあんた目つぶっとる」と言われるから次はもっと写真嫌いになる、というわけだった。
それに対して私が撮ったこどもの写真はほとんどがにこにこしている。ほんとにちっちゃい時から、写真撮るよって言うとカメラ目線でにこーっとする子だった。なんて素晴らしいんだ、と撮りながら感動したものだったけど、その写真を今見てまた何倍も感激している。とっても親孝行。

それより今。今のこどもも撮っておけば10年後にはかわいさが増しているのでは?ああ撮りたい!撮りたいけど思春期で撮らせてくれない。なんとか子どもの意思は尊重しつつ何か残したくて、買った本の写真を撮る時に本の向こうにこどもがちょびっとでも入るようにして、体の一部でも写りこませてみる。
シャッター音に気づいて振り向いたこどもに「本、本の写真だから!ほら、肘しか写ってないよ。ね。誰だかわからないでしょ?」と私はあわてて必死で言い訳する。撮影をやめさせようと飛んで来たこどもは、パシパシと形式的に軽く私を叩く。たいして痛くないけど私も形だけ「イテテテ」と言う。こどもは撮られた写真をちらりと見て、そのくらいならまあ許してやるか、という顔で戻っていく。

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