昨今のトランス議論について

最近Twitterでトランスの人たちとの共存の仕方について、たくさんの議論がされている。

なんとなく見ていただけだったが悲しくなるほど敵意の向け合いなので、改めて私も自分の感じたことを言おうと思った。

先に書いておくが、この時に必要なのはみんなが自分事として意見を考え、自分の言葉で議論することだ。より多くの人がやることが重要であり、Twitterのように一部の人の強い言葉がそのままリツイートされ、判押しされることではない。

またここではあえて「男性」「女性」という書き方をする。それは平成くらいまでの日本のジェンダー観であった男女のみの感覚で書きたいからだ。
今成人している大多数の人は平成以前の性教育を受けていると判断し、この書き方をする。

いわずもがな、別のジェンダーによるケースもあり得ることを宣言しておく。今回は、「最も多いとされるシス男性からのシス女性への性加害」による「シス女性によるシス男性への防衛反応」を取り上げますが、当たり前に女性や他のジェンダーによる加害ケースもあると認知しています。



結論からいうと、日本はトランスの人たちとの共存を既存のやり方で話し合うのは難しい。そもそもジェンダー観や性教育、あらゆるジェンダーのための性犯罪を起こさない環境づくりのスタートラインにも立てていない。
それは日本の文化の独特さと、女性が男性に対しての防衛反応がとても強いことにある。


文化の独特さでいうと、銭湯や温泉文化。
西洋ではあまりない「裸体のまま他人と時間を共有する文化」だ。デンマークに行ったときなどに人と話すと、かなりびっくりされる。「そういう場だから」と裸になれることにすら驚かれるみたいだ。これは彼らのバウンダリー意識が高いことにも由来するだろう。

しかし議論を難しくさせてるのは女性の防衛反応が強いことだ。これは女性が主題ではない、日本が性犯罪に優しすぎることが原因だ。

他の私の投稿を見てる人はご存知だが、私自身日本でも散々性的加害にはあっている。
女性、特に女子高生たちにとって、痴漢に遭うことがどれだけよくあることなのか、認識してる人は女性だけなんじゃないのか。

痴漢の多さ、盗撮文化(ついこの間も男子高生達が盗撮し学校は被害者に伝えず注意で終わりましたね)、授乳室などにも割り込むなど、あらゆるところで女性は「気が抜けない」、「身を守らなくてはならない」と感じさせられている。

これは「一部の加害者」により醸成されてしまった文化だ。
さらに言えばこういったものが犯罪を加速させているだろう。

・圧倒的に性教育が未熟で機能的ではない
・性犯罪に対して刑が軽すぎる


・不倫や性的な言葉を並べる広告が子供がアクセスする場にもある
・ネット広告の性的描写は過激さを増している
・性の過激表現はコンテンツとなり、倫理観とは別の嗜好品として広く受け入れられている

これは上段と下段に分かれているが、
上段が整わないことで、下段が生じ、また下段の影響力が加速していく。
例えば最後のコンテンツ化については、表現の自由やそれによる自制効果を唱える人もいるのでかなり議論が難しいところだと思うが、AVの演出を本気にする人がいる・また性教育が足りてない以上やはり影響力がないとは言えないポイントだろう。

でも私は「男性たちが改めるべき」という言い方をしたいのではなく、
「自分は性犯罪をしないよ」という人たちも、「加害男性」という主語で語られると責められている気持ちになってしまうのはわかるのだけど、そうではなく目の前にある犯罪に対して無いものにしないでほしいのだ。

そして日本の元々持つ文化に由来する「男児剛健たれ」みたいなものが、男性の生きづらさに繋がり、その立ち行かないものがそういった犯罪衝動に繋がっているところはあるだろう。少なくとも制御しきれない性衝動などは本人のためにも専門家に掛かれることが必要だと思う。
女性も、そこに「私が被害者だから」と思わず、目を向けていく努力が必要だ。


男女どちらも、そしてあらゆるジェンダーが、そこにあるものに対してちゃんと「誰かがしている」「誰かが困っている」ことを認め、加害させない・守るための世界にするための議論を一緒にしてほしい。教育福祉に繋いで欲しい。
そしてどんなジェンダー間の性犯罪も決して許さないという社会の姿勢が必要だ。これは、いますぐにでもできることなはずだ。

性の最低限の心理的安全性や信頼関係ができないと、今の、かつ裸体共有の文化のある日本ではジェンダー観のいどころが見つけられにくいのは当たり前だ。

生来の男性女性の部屋に行け、で済まされず、それを利用されるんじゃないかとか、存在自体を憎むような人間が現れてしまうのは残念ながら止められない。被害の怒りや悲しみに社会が寄り添わないから、よりマイノリティの悲しみを汲み取ろうにも被害を楯に攻撃すらしてしまう。

というか「トランス」という括りを作ってしまうのならトランス女性ゲイもトランス男性レズビアンもいる以上見た目で判断はどのみち不毛な議論だ。倫理観の醸成と即した環境、そして選択を増やすことが必要。

本当に早く、当たり前にジェンダー観が認められる世界になってほしい。
そして、今現在自分の中で折り合いをつけながら摩耗されている人たちに心から申し訳ないという気持ちと、それでもこの場にいてくれてありがとうという気持ちだ。
(ジェンダー観が浸透すれば「女らしさ」「男らしさ」の呪いから解放される人は多いのにね…)

最後になってしまいましたが、私はトランス差別に反対します。
問題はジェンダー感覚や一部の属性の人たちではない。加害を生み出す環境と教育福祉を変えていく必要があることを伝えていきたい。


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