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軽やかに前に進むために必要なもの



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ぱさぱさに乾いてゆく心を

ひとのせいにはするな

みずから水やりを怠っておいて



気難しくなってきたのを

友人のせいにするな

しなやかさを失ったのはどちらなのか



苛立つのを

近親のせいにするな

なにもかも下手だったのはわたくし



初心消えかかるのを

暮らしのせいにはするな

そもそもが ひよわな志にすぎなかった



だめなことの一切を

時代のせいにはするな

わずかに光る尊厳の放棄



自分の感受性ぐらい

自分で守れ

ばかものよ



 ー茨木のり子「自分の感受性ぐらい」1977刊より


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うまくいってるときは、よいのです。

大人だし誰のせいにもしない。

何が起こっても自分の責任。それが大人たるものと知っているのです。



でも、



何かトラブルに見舞われたとき、

忙しすぎて余裕がないとき、

進む道がわからなくてモヤモヤ霧に包まれているとき、

心がざわつくとき、


自分以外のだれかのせいにしたい、

環境が、年齢がと、まわりの何かのせいにしたい。



そんな気持ちに、つい、なってしまいます。



普段は気をつけていても、

感情がゆらいだときは、そう冷静ではいられないのです。



あぁ、いやだ、ゆらぐ自分が出てきた。

カツを入れなくっちゃ。

そんなときは、この詩を思い出すようにしています。



「なにいってんの、しっかりなさいよ」



茨木のり子さんの詩を読むたびに、

ゆらいでいるわたしの背中をバシッと叩かれるような気がします。



とくに最後の段落の、


「自分の感受性ぐらい

 自分で守れ

 ばかものよ」


これを読む頃には、「はい、わたしは大馬鹿者でした」と

ぷすっと笑いながら降参してしまいます。



こうやってバシバシっと叩かれて、

ゆらぐ自分が両手を上げて降参したころ、

待たせてごめんね、と大人な自分が顔を出してくれます。



そうして大人な自分が

ゆらぐ自分の手を取り、ともに前に進むことができます。



けっして、一人でなんでもできているわけではなく、


茨木のり子さんの詩や、

志を同じくするまわりの方、

気付きの宝庫である家族から刺激をもらい、


ゆらぐたびに、背中を押してもらっています。




前に進む人は、どうしても壁にぶつかります。

はじめてのことをするときは、どうしても不安になります。



そんなとき自分だけで解決しようとしなくてもいい。



いろんなひとや、ものの手を借りつつ、

軽やかに乗り越えられるといい。



なぜかって、前に進むことが目的だから。



なにがあっても、また前に進める人でいたいから。



あなたがゆらいだとき、

背中を押してくれる人や、なにかはありますか。



少しでも前に進むヒントやキッカケになりますように。




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