はじめの一歩は、清く 正しく ほがらかに。
「あぁ、穏やかに生きたい」
ジェットコースターみたいに感情を揺らすのは、
もうしんどいし、
ネガティブな出来事を飴をなめるみたいに思い出したくないと思っていました。
心穏やかに過ごしたい。
さざなみ立たない湖のような心境になりたかったのです。
心穏やかに?
それはどういう状態なのでしょう。
その静かな場所はどこにあるのか。
それは悟っている、ということでしょうか。
”心穏やかに”と”悟り”とは近いように思えます。
悟る、ということについて考えてみたとき、
わたしのイメージでは、
人里離れた山の中で、滝に打たれるとか、瞑想をしていて、
煩悩を捨て去り、究極のミニマリストである。
そういう人は、心穏やかな境地だろう。
さて、ではそれをしたいのか?と問うてみると・・・
山にこもって人と会わずにシンプル生きたいか、
いやいや、人と会いたい。
滝に打たれる?まっぴらごめん、肩がもげそうだ。
煩悩を捨て去り?うーん。おいしいものを食べたいし、あれもこれもほしい。素敵な暮らしをしたい。
一日くらいならできそうだけど、
なんだかそれは苦行のようで、”生きてる!”という感じがしない。
つまり、わたしは悟りたいと願う一方で、
土台ムリな条件付けをしていた、ということがわかりました。
”心穏やかに” と ”悟り”がニアリーイコールなら、
自分の願望と条件が、矛盾するものを追い求め続けていたということです。
このままでは、一生どこをどう歩いても心穏やかな場所にはたどりつくことはできなさそうです。
よかった、気づいてよかったです。
そういうときは、間違った定義づけを改めるときなのですから。
では、どういう風に変えたらいいでしょうか。
そうですね、わたしの考える心穏やかとは、
・感情に振り回されない
・つねにハンドリング感を持つ
ということでしょうか。
感情を感じるのは”生きてる!”という感じがするのだけど、
感情がジェットコースターのように乱高下するのは、ほとほと疲れてしまいます。
感情に振り回されない、というのは、
ロボットのように感情を感じるな、ということではありません。
むやみに自分や相手を傷つけることをしない。
そんなことに感情をつかわない。
達成感や、満足感のあるものをつくることに感情をつかう。
ハンドルを握っているのは、自分。
誰かのせいや、誰かにおまかせをしない。
そんなふうに思えたら、
自分で行きたい方向へ進むこともできますね。
わたしも疲れているときや新しいことにチャレンジするときは
まだまだ振り回されがちですが、こうやってアウトプットすることで
自分にカツをいれています(笑)
心穏やかの定義についてツラツラと綴りましたが、
滝に打たれるとか、山にこもるとかしなくても、
そう、非日常に身を置かなくとも
”心穏やかな”境地にたどり着くことができそうです。
日常の中にも、心穏やかな場所はある。
しばしの間、穏やかな気持ちで安らいだら、
またパワーアップして、明日もがんばるぞー!って思えますね。
2022年、はじめの第一歩。
目標に向かって、清く正しく ほがらかに歩んでまいりましょう。
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