「鵠沼西海岸」阿部昭著
書き手である男性が、三十年来住んだ鵠沼について記した一作。
戦争は終わったものの、男性の家には「ひとつの不幸が居すわりつづけ」ていた。
戦争神経症だろうか、正気を失った兄がいたのだ。
夕暮れになると、この兄のうったえるような泣き声が、まだ少年だった男性の遊び場である路地にまで漏れてくるのだという。
そのため、彼の家には誰も寄りつかなかったのだけれど、一人だけ例外があった。
近所に住む少女だ。
彼女は、少年の部屋へ来て共に遊び、そこへ兄が現れて机の引き出しをひっくり返しても、ちっとも慌てたりしなかった。
書き手である少年は、この少女に思いを募らせていく。と同時に、兄がいる限り、自分は一生結婚しないだろう、しないで兄の面倒を見るだろうとも思うようになっていた。
そして、まもなく少女は家族と共に東京へ移り、男性もまたそれまで住んでいた家を引き払い、ずっと陸に入り込んだところに見つけたあばら家へ引っ越した。
時が経ち、あるきっかけで兄の命が失われる。けれどそれで自由になれて、めでたしめでたしとはいかない。
男性の気持ちとしても、そういきなりは前向きな気持ちになれないだろう。
けれど彼は、兄がいなくなったことで、かつての少女に会いにいけると考えた。それは一つの希望だった。
一度だけくれた年賀状の住所をたよりに手紙を出すと、彼女から返信が届く。
そこには、彼女もまた損なわれてしまったことが書き記されていた。
鵠沼西海岸、この題名のように舞台は開けているのだけれど、心がどこまでも閉じていくような、やりきれない作品だった。
『戦後短篇小説再発見6 変貌する都市』講談社文芸文庫より
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