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【ありのままに生きるについて】考えてみた。
ありのままに生きている人はありのままに生きようなんて思っていないかもしれない。
ありのままに生きようと決断したらたまたまそうなった(ありのままに生きられるようになった)かもしれない。
もしかしたら、ただ運がよかっただけかもしれない。
ありのままに生きようって考えられる思考自体は見方を変えれば、心に余裕があるからそう考えられるようになったという可能性もある。
明日のことも考えられないくらい心の余裕がない人にとって、ありのままに生きようと考えることすら贅沢な悩みに感じるだろう。
ありのままに生きるというニュアンスは、そこそこの自分から輝く自分になりたい、といった要素を感じる。 その考え方を批判しているわけでなく。
どうやって明日を生きるか悩むこと、
例えば、
…今月の家賃どうやって払おうか
…ノルマがあるのに、まだ1台も商品が売れていない
…毎日嫌な上司に会うのは憂鬱 (辞められない理由が、なんかある)
…大病を患った、大きな事故にあった
…クラスで私だけいじめられる
「明日の手紙」のような世界観を押し付けられた本人にとって、歌を聞くことしか希望を感じることができないような環境は、前向きな気持ちになるには、まだ時間がかかりそうだ。
焦燥感や失意からしか生み出せない感覚がある。 ベストでもなく、ベターでもなく、生きる為に仕方なく妥協して考え、たどり着いた結論でもがきながら毎日を生きている人はある意味、ありのままにしか生きていないと解釈できないだろうか。
もしかしたら、こういった仮説も立てられる。
ありのままに生きたいと思考している人の感覚を分解してみれば、ただ単に自分が思い描く、理想的な生き方をしている(本人がそう思っているだけ)他者の模倣に執着しているだけだと仮定するならば、 そこに唯一無二のオリジナリティはなく、ただ単に(ありのままに生きられていない)他者を強烈に意識して、他者が羨む自分自身を偶像崇拝しただけの陳腐さを感じないでっしゃろか。 少なくとも自分の内面に向かうものではなく。
自身の著書の中では
”他者に対する配慮の欠けた自由奔放さは、ありのままに生きられない人間のエネルギーを過剰に奪うことも知っておかなければなりません。
ありのままに生きるための最適解を紐解けば、 一流料理人を目指す過程で避けては通れない下積み期間のような精神性で、コツコツと自分の感情や未来の希望へと意識を向けることではないでしょうか”
「人はなぜ生きづらさを選んでしまうのか」 引用
と書かさせていただいた。
ありのままに生きることは、逼迫感めいた環境で現状をコントロールできない場合において、自分への鼓舞のために「ありのままに生きる」を使用した方が何かとしっくりくる。
喧嘩に負けた不良グループが「覚えてろ!」と捨て台詞をはくくらいの、その場凌ぎで放ったエネルギー感の「ありのままに生きる」には、他者のエネルギーだけ奪う欺瞞性とオシャレ感を感じるのは私だけだろうか。悪口を言っているわけではなく。
ありのままに生きる、には(自分が選択した過程で)ありのままに生きられない環境を選択してしまった過去に対する反省と、すぐにはそう変えることができないことを覚悟しながら前にゆっくり進み出す、静かなエネルギーのような感覚を持ち合わせているように感じる。
赤い炎のようなエネルギーでなく、青い光のエネルギーのように。
誰かが放った「僕はこうなる」(私はありのままに生きる)、このアピールを仮に反応したとしても、次会った時に、別のことをし始めた他者のわがままっぷりに振りまされることに飽き飽きしているなら、料理人の下積みのように、自分の理想に向かって「ありのままに」地道にゆっくり突き進んでいくことがマシな人生だと提案できないだろうか。
コンサート終わりに散乱した紙コップや食べ残しを始末しなければならない羽目に陥らないために。
ありのままに生きることは、「そう思う」思考よりも長い時間をかけた行動積み重ねの結果ではないか、という仮説を 四つん這いになって、エクササイズの本を見ながら考えてみた。
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