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『注意深く観察して行動しろ』


おはよう。朝だね。

自分は何者か

私は、大学生である。しかも4年生。そうそう、関西では「4回生」というんだよ。

でも私は、いまは、何者でもない。じゃあ、過去は?私にも当然過去はある。あなたにも、大家のおじさんにも、元バイト先の寿司屋の大将にも、駅ですれ違うスーツのお兄さんにも、過去はある。人の群れは、それがこわい。みんな心を持って、自分を構成してきた過去を持って、何かを考え目的を持って動いている。そういうときは、自分が心を読む能力者じゃなくって良かったと思う。でも、人は好きだ。

ううん、話を戻そう。私は、何者かだったことはないが、誰かにとっての何かであったことはあると思う。あるときはあの子にとっての友人だったし、ライバルだったし、恋人だった。もしかしたら目標であったかもしれない。
もちろんこれは妄想でしかない。もしかしたら私は誰かにとってのゴミだったかもしれない。でも、それでも、誰かにとっての何かだから、いいのだ。
道端の、認識すらされない石ころ。私はこれまでそういうものに気づいてこれなかった、と思う。勝手に、自分は周りをちゃんと見れていて、気が利くやつだなんて、そんな恥ずかしいことを本気で思っていた。すぐにこけるくせに。すぐに忘れるくせに。
まあだからこそ、私は自分が誰かにとっての何かであったと胸を張って思えるのだがね。そして、これから、たったいまこの瞬間からであっても、ほんの少し周りを見渡せる人になれるといい。それが、人との関係性の上にある何かではなく絶対的な何者かになるための第一歩となれるだろう。

私は常々思っているのですが

「私は、常々こう思っている。」そんなことを言える漫画や小説、ドラマの主人公のような人にあこがれる。周りを注意深く観察して、見るんじゃあなくて、観る。感じるんじゃなくて、捉える。意識して周りの状況を知ることを、無意識に行う。そうして得た情報をもとに、常に考える。自分の持っている知識を総動員して、考える。それが私のなりたい姿。そうして得た考えを順序だててわかりやすく相手に伝えられることまでできるとなお良い。

そのためにいまからすべきことは、上述のように周りをよく観ることができるようになること、そして、知識を蓄えることだ。

本を読もう。
あるとき、とある大学の教授が、さも学生たちが当然に岩波文庫だかなんだかを読みつくしているだろうというのを前提として、話をしていたという話を目にした(旧Twitter)。これは、まあ考えるまでもなくそのままの意味だろう。天才じゃないんだから、いや、もしかしたら天才であっても、自分で考えるには、その基盤となる知識が必要だ。それらの知識を得ているのが、自分で考える大学という場においては当然なのであろう。
相手との共通の基盤があれば、異なる考えでも理解できる。なるほど、あなたは私とは違い、そういう理解なのか、といった感じに。
相手との共通の基盤でなくとも、社会一般に通用する前提知識があれば、それにより一般に言うところの説得的な論説の展開が可能になる。

自分の考えを述べるのは、恥ずかしいことではない。恥ずかしいことになってしまうのは、自分に自信が無いからだ。自分に自信が無いのは、自分の話の内容からだろうか、それとも自分という存在そのものを恥ずかしく思うのだろうか。私は、前者である。話の内容に自信が無いのだ。もしかしたら自分の話は変なのではないか、的外れではないか、そういったことを不安に思うのならば、まずは知識をつけるべきだ、それが大前提だと、私は思う。

なので、私は、本を読む。参考書であっても、教科書であっても、文庫本であっても、知識を得ることを楽しんで、成長をじりじりじりりと感じながら、大きく、頼れる立派な人物になりたい。

もう、授業が始まる。
じゃあ、また。

以上。


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