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読書記録「努力論」⑧

川口市出身の自称読書家 川口竜也です!

今回は、幸田露伴先生の「努力論」岩波書店 (1940)の要約を進めます。

未来のために幸福を"植える"

これまで2回に渡り、幸福に関して露伴先生の考えを書いてきました。一つ目が「惜福 (福を使い尽くし、そして取り尽くしてしまわないこと) 」について、二つ目が「分福 (自らの幸福や富を他の人に分かち合うこと)」について記しました。

しかし、よくよく考えてみますと、惜しまず使うなり分かち合うなり、これらは既に幸福を受け取った人ができることです。幸福や幸運などは無論努力の結果であるにしても、いずれは底を尽きてしまう考えられます。

ゆえに、露伴先生は自ら「植福」をしていくことの重要性を述べております。自らの力や知識、経験などを通じて、世の中に新たなものや考え方を寄与することであり、社会をより良くしていく行為である。

「分福」と「植福」の違いとは何か、露伴先生はりんごの木を例に説明している。

例えば、庭にりんごの木があったとする。その木がすくすくと成長し、甘いりんごの実をなったとすれば、庭主は努力の是非に関わらずその実を食べることができる。これを「有福」と呼ぶ。

もし庭主がそのりんごを無闇に食べ尽くしてしまえば、当然その実がなるまで来年まで待たねばならないが、腐らないように長く保管したり、来年はより育つように無駄な木を伐採すれば、より長期に渡ってりんごの果実を味わうことができる。これを「惜福」と呼ぶ。

また、庭主がこんなに美味しいりんごを独り占めするのはもったいない、是非知人や近所の方々に分けてあげようと、たくさんの人に分かち合うこともできる。これを「分福」と呼ぶ。

更に庭主が、りんごの実から出た種を植えたり、苗木を育ててより多くりんごの木を育てようとする。一朝一夕でりんごの木ができるわけでは無く、何年も水をやり、害虫から守り、天候などに左右されながらも、見事りんごの木を成木にさせたのならば、より多くのりんごの実を収穫することができる。これを「植福」と呼ぶ。

つまり、「惜福」や「分福」が既にあるものを大切にし、分かち合うことだとすれば、「植福」とは将来得られる幸福のために、現在の福を植えること(努力すること)である。

これを実行する人は世の中に多くはない。誰もが目先の幸福を得ようとするけれども、実際に幸福に恵まれる人が少ない。そのため自ら努力して福を植えることから始めなければならないのだが、周りから与えられたり、向こうからやってくるのを待っている人が多い。

なぜなら、その始まりがあまりにも小さなことで、すぐに結果や対価を得られるものではないからである。りんごの木でも同じように、初めは小さな種から始まる。今日植えて明日実になるなんてことはなく、何年もかけて努力し続けることにより収穫できる。その事実を知っているか知らないのかを別にしても、その努力を怠ってしまうのが人間である。

だが、忘れてはならないのは、今私たちが生きているこの現代というものは、過去の先人たちが築き上げた「植福」の結果なのである。有難いことに、飢える事なく食事にありつけることも、蛇口をひねれば水が出ることも、安心して寝られることも、過去の先人たちが世のため人のためと努力した結果なのである。これを読んでいるスマートフォンやパソコンだって、人々の努力の結晶なのである。

ならば、後世の人たちのために、我々も徳を積み、知識や経験を積むことは、「植福」のための、いわば幸福の源泉とも言える。どんな形であれ、社会をより良くしようと与えることにより、文明や文化はより発達していくものである。近年話題となっている贈与論のように、過去の人たちが現在の我々に幸福を与えてくれたからこそ、我々は未来の人たちに幸福を受け継いでいくことが大事である。

福を有する人はあるいは福を失うことあらん。福を惜しむ人はけだし福を保つを得ん。能く福を分つ人はけだし福を致すを得ん。福を植うる人に至っては即ち福を作るのである。植福なる哉、植福なる哉。

同著 86頁より抜粋

幸福を惜しみ、分かち、そして植えること。一人一人が行うことで、より社会は良くなるはずです。是非小さなことから始めていきましょう。それではまた次回!

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