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言語化できない ≠ 知らない
川口市出身の自称読書家 川口竜也です!
自己啓発本やビジネス書の類には、インプットした後は必ずアウトプットするべきだと言う。知識を蓄えるだけで終わらせるのではなく、生きた知恵として活用しなければ、意味がないと。
実際私のnoteも、読書を通じて思ったことやコラムを読んで得たことを、記事という形で言語化している。恐らくnoteを書いている人も、そういうアウトプットの場として活用している人も多いだろう。
とは言え、読んだことや得たことを、全て言語化出来るわけではない。1冊の本について何回に分けて記事にするならまだしも、1つの記事で全てを記すのは難しい。
引用した部分以外にも、折り目がついたところはいくつもあるし、それこそ物語のあらすじなども、重要そうなところやネタバレしないと思えるところだけを言葉にしている。
それ故に、改めて記事を読み返したり、他の人から読まれた際に「こいつは本当にこの本を読んだのか」と思われなくもないだろう。どこかの要約サイトから、あたかも読んだかのようにまとめたのではないかと。
でもそれを完璧に証明することはできないし(あるいはその必要もないかもしれない)、言語化できなかった部分について、何も知らないと思われるかもしれない。
だけど、レイモンド・チャンドラー 村上春樹 訳の「ロング・グッドバイ」早川書房 (2010)にて、以下のような言葉がある。
「活字にできないからといって、僕が知識を持たないということにはならない。失礼するよ。また会おう」
もちろん作中で用いられるの意味合いとは異なる解釈ではあるが、この言葉は何かをアウトプットをする上で、ある種の気休めになる。
別に言葉にできないからと言って、自分が何も知らないわけではないんだと。自分が何も考えていないわけではないんだと。
もちろん、1冊の本について深く分析なり、それこそ著者の意図を理解することができるのなら、それに越したことはないだろう。
1つの分野について、たくさんの本や説を知っていることも、それがすぐに役立つことはなくとも、教養という形でいずれ武器になる。
つまり何が言いたいのかというと、自分がこれまで読んだことや得てきたことが、すぐに言語化できないとしても、それは恥ずべきことではないのだ。
自分がその本を読んだことは、他ならぬ自分が一番覚えている。他人がどうこう言おうと、その人は自分の頭の中まで理解することはできまい。
会話がたどたどしくてもいいいじゃないか。しっかりと自分の言葉を使っている証拠なのだから。それではまた次回!
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