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「好きな作家」は何冊から?

川口市出身の自称読書家 川口竜也です!

東京読書倶楽部の読書会では、自己紹介にて「好きな作家」や「よく読む本のジャンル」について語っていただくよう伝えている。

あくまでもアイスブレイク程度のお話。読書好きが集まっていますよという、空気感を合わせるための時間である。

ただ中には「村上春樹さんしか読みません」とか、「DiaGoの著書はほぼ目を通しています」という方も少なくない。

そのような方々にお会いすると、はてさて「好きな作家と名乗る定義や基準はあるだろうか?」と考えてしまう。

なぜなら、私はそこまで陶酔して読んだ作家があまりいないからである。

例えば、私が好きな作家を挙げるとするならば、森見登美彦さんが挙げられる。

「四畳半神話大系」から始まり「太陽の塔」、「熱帯」、「夜行」、「恋文の技術」、「ペンギン・ハイウェイ」、「美女と竹林」、「きつねのはなし」など、それなりの作品・エッセイは紐解いている。

森見登美彦さんの「夜は短し歩けよ乙女」の影響で、まずは電気ブランを飲もうと思い、夏の京都は下鴨納涼古本まつりを訪れた。

ただ私が読んできたのは、あくまでも書籍化された作品である。雑誌やコラムまで目を通しているかと問われたら、全然である。

サイン会や出版講演会的なものを訪れたこともなければ、おそらく目の前に本人が現れても気づける自身がない(そもそも人の目を見て歩いてない)。

それに私は、著者のパーソナルな情報をほとんど目を通していない。

森見登美彦さんが京大出身であることは知っているが、年齢や出身地、影響を受けた人とかを聞かれても、はてと思ってしまう。

先日は「森見作品に出てくるヒロインは、森見登美彦氏本人の乙女心を具現化した姿である」と対談で語っていたと聞いて、まだまだ知らないことばかりだなと思った次第。

そんな状態にも関わらず、果たして本当に「好きな作家」と名乗っていいのだろうか。

誰の本かは忘れてしまったが、作家が一番喜ぶことは「あなたの作品はすべて読みました」と面と向かって言われることだという。

なんだかんだ言っても、同じ作家の本を多く読めば読むほど、作家に対する愛情的なものも積み重なるだろう(よっぽど文句を言うためでもない限り)。

本当に好きな人は、それこそその作家一筋で読み続けている人もいらっしゃる。

先日別の読書会に参加した際も、「翻訳含めて村上春樹の作品は6割以上読んでいる」と語る人にお会いした。

それに比べたら「1Q84」や「ノルウェイの森」、「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」、翻訳「グレート・ギャツビー」と指折り数える程度しか読んでいない人。

正直、震災前後で作風や伝えたいこと(?)が変わっている事自体知らなかったし、そういう観点で作品を読んだことすら無かった。

中には一つの作品について深く考察される方もいらっしゃって、文学部でしっかり研究された方にお会いすることも少なくない。

だとしたら、読んでいる作品の数、作品に掛けた時間がなければ、「好きな作家」と名乗ってはいけないのだろうか?

少なくとも私の場合、森見登美彦さんの作品を、他の作家と比較して多く読んでいることは事実である。

どの作家よりも、森見登美彦さんの作品を所有・読了していることは確かなことである。

それで言うと、好きという感情は、ある程度時間によって育まれるのは正しいのかもしれないし、相対的に読む冊数が多いことも一因になるだろう。

沢山読んでいるからこそ、やっぱりこの人の作品が好きだと言えるという点は否めない。

だけど「この人の作品2〜3作しか読んでいないけれども、この作家好きだわぁ」ってケースも、正直あるよね。

「四畳半神話大系」だけ読んでいる人が、森見登美彦さん好きなんですと言っても、それでええやん。

好きなことを語ることに上も下もないんだから、と思ってしまう。

もとより、どんな作家も1冊目から始まる。これから新たに読むことだってあるだろう。

むしろ、俺は誰よりもこの作家の本を読んでいる、誰よりも作家を理解していると言い回る読者がいたら、私は謹んで身を引こう。

結局のところ、自分が好きだと言うことに、優劣の差はないのだ。

1冊だろうが、100冊だろうが、その人にとっては「好きな作家」に違いないのだから。

もはや、今までの話なんだったんだと言われるかもしれないね(笑) それではまた次回!

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