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読書記録「沈黙」

川口市出身の自称読書家 川口竜也です!

今回読んだのは、遠藤周作さんの「沈黙」新潮社 (1966)です!

遠藤周作「沈黙」新潮社

・あらすじ
時は江戸時代、異国の脅威を恐れた徳川幕府による、踏み絵などによる「キリシタン狩り」が行われていた。ローマ教会が受け取った日本からの報告書はとても信じ難いものであった。当時、教会で名が知れていたフェレイラという教父が役人に捕らえらえ、市中引き回しの上、釜茹でや穴吊りなどの拷問を受けたのちに、棄教を誓ったという。

報告を受けたロドリゴとガルぺの二人の司祭は、事の真偽を確かめるため、そしてそんな困難の中でもまた信仰の種子を蒔くために、命を賭けて日本を訪れる。しかし、キリシタンの入港すら禁止された状況下、一筋縄ではいかない。

山奥の村に身を隠し、役人の追っ手から逃れるも、踏み絵を拒絶した信者たちは悉く処刑させる。あるときは前触れなく斬首、あるときは体に俵を巻かれたまま海に落とされ、またあるときは何日も逆さ吊りにされる。

日本のお役に立つために、信者を救うために遥遥命懸けで訪れたはずなのに、まるで疫病神の様に扱われる。こんなに祈っているにも関わらず、主は「沈黙」したまま…。

冒頭から終わりまで、救いがないような話だったと、多分学生の頃ならばあまりの惨さに途中でやめていたかもしれない。だが、暗闇で光る一筋の光が差し込むように、恐ろしいながらも不思議と希望を感じる作品でした。

「沈黙」は、よく読書会で紹介される。誰しも読むのが辛く、読後感はひどいと言う(確かにあまり良いものではなかった)けれども、また読みたい、この気持ちを味わってほしいと口を揃えて仰る。

祈りが通じるか通じないのか、そもそも神は存在するのかというキリスト教にとっては、根源的な問いである。作中では信者達がどれだけ酷い目に合っても、それこそ肉体的にも、精神的にも屈辱を与えられたとしても、主は「沈黙」したまま、微笑みかけることはなかった。

身も心も疲弊し、いよいよ踏み絵を差し出された司祭、その結末と最後の節は考えさせられるところがある。

もし私が踏み絵を差し出されたら、多分踏んでいるだろう。死ぬか生きるかの瀬戸際で、我が身の保身の方が大事だと今の私なら思う。だが、信者からしたらそんな簡単な話ではないのだろう。棄教という行為が、どれだけ罪深いもので、どれだけ心を深く傷つけるのかを、残念ながら私は知らない。

自分が信じていたものに裏切られる、いや、本当に裏切ったのだろうか。信ずるものはいざという時に登場するヒーローではなく、常に心に存在する、共にあるものではなかろうか。その存在が、今の私を保ってきたというものが、信ずるものではなかろうか。

是非皆さんにも読んで貰いたい。それではまた次回!

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