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文学に触れる意義

川口市出身の自称読書家 川口竜也です!

毎度のことながら、読書会では様々な考え方に出会う。この世界には、知っているようで知らないことばかりだなといつも思う。

最近だと、性別に対する考え方だとか、難病を患った人の話だとか、それらがどのような前提や思考なのか、お恥ずかしながら全然知らなかったことばかりである。

別に知らなくても困ることは、あまりない。でも知らないままでいるのは、自ら世界を狭めてしまうことだと思う。

先日見かけた記事で、太宰治研究の第一人者として名高い安藤宏教授(東大大学院人文社会系研究科)のインタビューがあった。

学生時代を振り返りながら、大学で文学を学ぶということに対して、下記のように回答している。

文学は立場を変えて読むと全く違う作品になりえます。そうやって読むことで、立場を変えて物事を考える力が身に付くのではないか。社会に出れば、自らにとって異質なものに必ず出会います。その時、きっとこうした経験が生きてくることでしょう。

上記の記事より抜粋

人間と言うものは難儀なもので、自分とは価値観や考え方をなかなか受け入れがたいものである。そもそも、相手のことを完全に理解するのは不可能である。

ましてや、自分の価値観というものは、すぐに変わるものではない。今までの人生経験の積み重ねが現在の常識、価値観を生み出しているのだから。

逆に言えば、変えようと思えば変えられるものでもある。プロファイル(経歴)ではなく、プロファイリングという現在進行形(ing)で、変えられるものでもある。

文学に触れるということは、自分とは違う価値観に触れることでもある。自分とは知らない世界に出会うことでもある。

それはいわゆる"異質"なものかもしれない。それを文学という客観的な視点で見れることが、自分の主観から離れられることが意義のあることなのだろう。

その結果、受け入れられないのならば、それは致し方がないものなのかもしれない。いわゆるマイノリティに対して、全て受け入れるのは難しいかもしれない。

つまるところ、たとえ理解しがたいものであったとしても、知らないでいるよりかは、知る方が良いと思うし、それに触れられるものが、文学なのだと思う。

もちろん、文学に限らず、それが本を読む意義なんだろうなぁと、しみじみと思う。それではまた次回!

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