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「の」って書いてあるけど

7月○日 曇り時々雨
しばらく居間の棚の上に飾ってあった



誠一郎はかく語りき



 帳場の上に母の作ったくす玉がいくつか置いてある。趣味で時々顔を出している集まりで作って来たものらしい。
 何枚かの折り紙を組み合わせて作るそうで、色の組み合わせでいろいろな雰囲気のくす玉ができるのが気に入ったそうだ。明るい色のもの、落ち着いた色のもの、可愛らしい色のもの。
 木製のいかにも古めかしい帳場の上は華やぎ、手のひら大のくす玉が誇らしげに鎮座している。

「ごめんくださぁい」

 走りながら勢い良く店に入ってきたのは小さなお客さんだった。半袖半ズボンの男の子。4、5歳くらいだろうか。つい先日も母親と一緒に店に来たような気がする。名前は知らない。

「おつかい? 偉いね」

 椅子から立ち上がると、男の子は驚いた様子で一歩後退りをした。どうやら彼を驚かせてしまったようだ。
 近付けばそのまま店の外に出て帰ってしまう気がしたので、再び椅子に座ってみる。
 男の子は後退りをした分、一歩前に進んだ。表情は強張っているように思える。

「お酒……お母さんが料理で使う」
「料理酒ね。はい、ちょっと待ってねえ」

 警戒されないような優しげだと思われる声を出し、その自分の声色の気色悪さに鳥肌が立ちそうだった。
 もごもごと小さな声で言うので聞き取り辛かったが、「お母さん、料理」の言葉でぴんと来た。たぶん間違い無いだろう。
 男の子は首からかけていた袋をひっくり返し、帳場の上には札と小銭がばらばらと落ちた。その拍子に置いてあったくす玉はいくつか落ち、男の子の視線がくす玉に向いたのを確認した。
 料理酒は後ろの棚の一番下にある。男の子はくす玉を手に取って眺め始めた。その間に立ち上がり、二種類ある料理酒を台の上に置いた。

「どっちを買うかわかる?」
「んー」

 男の子に聞いても手にしたくす玉をぽんぽんと弾ませ、空返事だ。

「お母さんいつも何を使ってるのかな?」
「うん」

 空いている手で違うくす玉を手に取り、今度は両手で2つのくす玉をぽんぽんと弾ませている。男の子はくす玉に夢中なようだ。
 どうしようかと悩んだが、何も買わないで帰すのも可哀想な気がする。値段の安い方を持たせた方が良いのだろうか。

「こっち。お母さん使ってるの赤い字だった」
「そっかそっか! わかった。ちょっと待っててね」

 良かった。間違った買い物をさせないで済みそうだ。せっかく小さな子供が勇気を出してひとりでお使いに来たのだから無事に買い物を済ませて帰らせてあげたい。
 しばらく手元で遊んでいたくす玉を帳場の上に置き、男の子は首にかけている袋の中を覗き込んだ。お金は少し前に帳場の上に出していたことを今、思い出したようだった。
 帳場の上のお札を受け取り、釣り銭を用意して急いで料理酒を梱包する。男の子は再びくす玉を手に持つとぽんぽんと弾ませている。

「はい、おつり。ありがとうね」
「うん」
「良かったらそのくす玉あげるよ」
「え、良いの?」
「良いよ」

 母親が作ったものだし、またどうせ作るのだろうから別に構いやしないだろう。くす玉の一個か二個無くなったくらいでぶつぶつ言うような人でも無いはずだ。
 男の子はくす玉をひとつずつ眺め、置いてある釣り銭には興味が無いようだった。忘れたら大変だと、釣り銭を男の子の首に掛かっている袋に入れてやった。そして、男の子は青色と紫色のくす玉を選んだ。

「これとこれ」
「良いよ。あげるよ」

 わあと声を出し、勢い良くぽんぽんとくす玉を弾ませた。そして急に背筋をピンと伸ばし頭を下げた。

「ありがとうござます」
「どういたしまして。それ作ったのお母さんなんだけど、伝えておくね。喜んでたよって」
「僕のお母さん?」
「違うよ。僕のお母さん。俺の。あ、お兄さんのお母さんね」
「ふぅん」

 男の子はそれから黙ってじっとくす玉を眺めている。

「じゃあお手紙書く。お母さんに。ありがとうって」
「そうなの? じゃあ鉛筆と紙はこれだよ」

 後ろの棚の引き出しに入っている用紙を一枚渡し、鉛筆もとっさに渡した。
 男の子は床に紙を置いて何やら書いている。
 まさか母が趣味で作ったくす玉がこんなに喜ばれるとは。母も喜ぶに違いない。この事を伝えたら張り切ってさらにたくさんの種類のくす玉を作ろうとするかもしれない。

「はい。これお母さんに渡してね」

 見せられた紙には「の」の文字がいくつか書かれていた。

「えっと……"の"って書いてあるけど……何て書いたのかな?」
「"の"って書いたよ」

 「の」がたくさん書かれた用紙を前に固まってしまった。この手紙は一体何を伝えたいのだろうか。
 この子はまだ文字が書けないのだと思った。書ける字が今は恐らく「の」だけなのだろう。これでは何て伝えたいのかさっぱりわからない。

「あれ……あー、じゃあ代わりに書いてあげようか。何て書く?」
「いらなーい。だって僕の手紙じゃなくなるもん」
「まあ……そうだけど。そうだね。それじゃあ君の手紙じゃなくなるもんね」
「そうだよ。じゃあありがとねっ」

 男の子は大事そうにくす玉と料理酒を抱えると走って店から出て行った。
 手元にはたどたどしい字の「の」がたくさん書かれた用紙が残された。

 母にその手紙を見せたところ大変喜び、可愛い字でしっかり「ありがとうございます」と書いてあると言い張っていた。
 不思議とそう思うと言葉に見えてくるもので、あの男の子なりに一生懸命感謝の気持ちを書いたのだろうなと感じる。代筆は必要無かった。
 居間にその手紙は飾られ、母のくす玉作りはますます力を入れ始めた。そのうちに自分の店だけでなく、商店街の他の店にも配り出したのだった。

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