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降りてゆく

※汚い話なので、気分を悪くするかも。ご注意下さい。




 濡らしたトイレットペーパーはぼろぼろと崩れ、拭いた分だけ紙のかすがヴィトンのロゴにくっついた。足元はぐちゃぐちゃになったトイレットペーパーだらけ。
 自分から出たものとはいえ、臭いしドロドロとしているし、気持ちが悪かった。私の大事なヴィトンももう使いたくも無い。見たくもない。靴にもついた。
 何でこんなことをしなきゃいけないの。どうしてこうなった……辺りにひと気が無いのが唯一の救いだった。こんな姿誰にも見られたくない。惨めで汚らしい。最悪。

 遡ること二時間前──

 良い感じになってきた私と坂下さんは、高層ラウンジで食事をしていた。
 窓際の席をわざわざ予約してくれて、眼下に広がる景色はキラキラと輝いていた。道路を走る車のネオンが連なり、どこまでも続いている。とても雰囲気の良い場所だった。
 目の前にいる坂下さんはイタリア物のチェックのジャケットがとても良く似合っていた。すごく高いブランドらしく、いちいち服自慢をしてくるところは少しウザいけど、目をつむれば他のところは完璧だった。
 商社マンで背は高く細身で知的。顔はまぁまぁ。私の知らないことや場所も良く知っていて、全てがスマート。かなりの優良物件。私のスペックではここまでが限度だと思う。そろそろ本気で決めたいところ。
 このチャンスを逃してなるまいと、坂下さんと何回かデートを重ねとうとうこの日を迎えた。たぶん結婚を前提とした付き合いをしたいと、そう言われるはず。だってこんなに雰囲気の良い場所を予約してくれて、決める気満々じゃない。
 坂下さんは私に夢中になって舞い上がっている。そういう風にプッシュしてきた。私は女優とまではいかないけど、間違いなく平均よりも上。ご自慢のジャケットを着た貴方の隣りに私が並べばとても絵になる二人。

「じゃあ乾杯しようか」

 赤ワインの入ったグラスをかちんと傾け、お互いにワインを口に含む。むあっとした香りが鼻を抜けた。じっと私を見つめる視線が熱を帯びている。テーブルに置かれた私の手に坂下さんは指を絡ませた。だめ。触らせてやらない。私はすぐさま手を引っ込めた。
 坂下さんの反応を見つつ、私たちは食事を楽しんだ。彼は仕事の話や服の話ばかりして全然本題には触れなかった。
 食事は美味しかったけれど、私は赤よりも白の方がまだ飲める。赤ワインはそうでも無い。
 コース料理を堪能し、坂下さんはテーブルで勘定を済ませた。見た事の無い色のカードでお支払い。家族カードも同じ色なのかな。
 それにしても、何の話も出なかったのが意外で拍子抜けだった。こんなに良いシュチュエーションなのに。早くしてほしい。意気地の無い男め。
 どきどきして損をした。少し興奮していたのか、赤ワインが合わなかったのか、何だか胃もたれがする。

「……この後、家に来ない? この前、家を見てみたいって言ってたよね。そんなに綺麗な家じゃないけど。何だか飲み足りないし」
「……そうですね。私も少し酔ったみたいです」

 そう来るんだ。まぁ良い。本当はここのホテルでも良かったけど。赤坂の自宅にとうとう行けるんだ。こういうこともあるかなと、全てを完璧に準備してきたから大丈夫。でも、「少し」じゃなくて「かなり」酔っている。胃の中で何かが消化されていない。何か残っている。赤ワインはダメみたい。
 店員が預けていたコートを持ってきた。コートに袖を通すと、ナイロンの裏地は冷やりとしていて気分の悪さが少し軽くなった気がした。
 エレベーターが来ると坂下さんは手を差し出して「お先へどうぞ」とエスコートしてくれた。こういう彼のスマートなところは大好き。
 ラウンジのある階から二つ階を下へ行くと子連れの家族が乗って来た。ホテルの宿泊客らしい。
子どもは私がいるボタン前の位置に割り込むと、全ての階のボタンをガチャガチャと押しはじめた。

「こら、止めなさい!」

 すみません、すみませんと親が謝った。苦笑いをするしか無かった。子どもは一人でぺちゃくちゃと何かを喋っている。その甲高い声が頭に響いてさらに気分が悪くなってきた。外の空気を早く吸いたいのに、三十三階から一階ずつ降りてゆくエレベーター。いよいよ気持ちが悪くなってきた。
 その時坂下さんが、そっと手を握ってきた。待って、私はそれどころじゃないの。手に汗かいてないかな。
 一階ずつゆっくり、ふわりと体が浮く感覚に込み上げてくるものがある。じわりと嫌な汗が背中をつたう。

「この人たちアベックかな?」
「こらっ! 静かにしなさい。すみません……」

 ホントにやめて。私に触れないで。エレベーターは一階ずつ降りてゆく、その度に開いて閉じてを繰り返す扉に目眩がしそうだった。あと何階なの? ちょっと本当に……

「あれ? 顔色悪いけど大丈夫?」

 私に話し掛けないで、お願いだから。エレベーターはとうとう三階まで降りてきた。あと少し。二階へ到着すると扉が開いてレストラン街を利用した客が乗って来た。おじさん集団の大きな声と酒の匂いで、いよいよ喉の奥に込み上げてくるものがあった。もう、ダメかも──
 とうとう一階へ着いた時、私はエレベーターから足早に出てその場にしゃがんだ。胃の中の物は既に口の中へと上ってきていた。

「もう、無理……」

 咳をしたと共に赤い液体に混ざり、先ほど食べた物が床に広がった。一度出てしまうともう止められない。

「え……大丈夫?」

 坂下さんの声が一歩引いた場所から降ってくる。近寄って来る気配は無い。

「うわぁ、ばっちい。あの人ゲーしたよ」
「こら、やめなさいっ」

 同乗していた子どもの手を引いて家族連れは去って行った。ちらちらと子どもがこちらを振り返るのがまた腹が立った。「若いって良いね!」途中から乗ってきたおじさん達は笑いながら通り過ぎた。

「あの、汚れてたら車に乗せられないからさ……人が見てるし。ここ、駅から近いから大丈夫だよね?」

 大丈夫なわけないじゃない。見れば分かるでしょう?
 私は坂下さんを見上げる気にもならなくて、黙って鞄からハンカチを取り出した。口を拭いて、立ち上がる。この男、どんな顔で私を見ているんだろう。

「大丈夫だよね? 大丈夫そうだね。じゃあ……ここで」

 坂下さんは「うん、大丈夫だ」と何回も言いながら逃げるようにして去って行った。遠くに警備員の姿が見えた。私は床をそのままにとっさにその場から去った。こんなのって無い。

 すぐ近くの薄暗い公園に逃げた私は公衆トイレからトイレットペーパーを取った。服にも少しついたのと、鞄にはもろに掛かった。ヴィトンが……とにかく鞄に掛かった分を拭こうと必死にトイレットペーパーを手に巻いた。
 何でこんな目に。赤ワインが悪い。あと、坂下さんは人でなしだ。最低最悪。こんなことなら、佑二と別れなければ良かった。佑二だったら私を置いて行くことは絶対にしなかった。優しいだけが取り柄だったもの。
 トイレットペーパーをくるくると手に巻いて、ヴィトンに染み付いた臭いと汚れを必死でとった。もう、最悪。坂下も最悪。この私を置いて帰るなんて。
 悔しくて悔しくて必死で鞄を擦った。ぽろぽろと紙くずが辺りに散らばって風でいくつか足元から飛んで行った。
 ひと気の無い公園だったけれど、ひとりのサラリーマンが私のことをちらと見て通り過ぎた。知らない人だし、もう二度と来るような場所でもないからどうでも良い。すると、通り過ぎたはずのサラリーマンはこちらを振り返って戻って来た。さっさとどっかに行ってほしい。こっちに来ないで、早く通り過ぎてよ。

「……大丈夫ですか?」

 まさか声を掛けられるとは思っていなかった。

「この公園は夜は人がよくたむろしているので危ないですよ。体調悪いとかですか?」
「あの、いえ……吐いちゃって……」
「水いります? 買って来ましょうか?」

 にこやかに私を見下ろす顔が優しげで、この人ちょっと良いなと思ってしまった。何で優しくしてくれたんだろう。ただの親切ではないはず。きっと、そういうことだと思う。
 もうこの際、この人でも良いかも。スーツの左胸にはどこかで見た事のあるバッジが輝いている。良かった。私はまだ大丈夫。まだいける。

 私がその人の左手の薬指に指輪があることに気が付くのはもっとずっと、どうしようもなく深く進んでからのことだった。

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