そうして私は本を読めなくなった

多分ずっと、隠れ読書恐怖症だった。と思う。
普通に文章は読むし、興味を持った本は一気に読んで感銘を受けたり読み返したりもするので根っからと言うわけではないけれど、「読書」「本」「本を読む」という読書関連ワードに感じる重苦しさは、年々増していくのだった。
抗うように本に手を伸ばしても一向に捗らない。
延長に延長を重ねた末読まぬまま図書館へ返却する本。
本の重さが、そのまま心の重さに加わっていくようで手に取るのも嫌になった。窒息しそうだった。
そして私は、自宅にある本を処分し始めた。

一番最初に手放したのは100冊以上になる世界文学全集だった。
作者をはじめ当時の人たちの叫びや懊悩が、居並ぶその存在から放たれているようで辛かった。
「けどきっとそこから私は何かを学べるはずだ。胸打つ普遍的な何かがあるはずだ。だからこそ名作と言われ残っているのだから…」長年そう自分に言い聞かせてきたけれど、、、もう、無理。
また読めるようになったら、いつでも手に入るんだよね、と思い直し、サヨナラした。
今思えば、「重み」を感じる順に売り飛ばしていった気がする。
紀行文や図鑑、美術やとっておきたい本だけを残して、広くなった部屋で伸びながら、本当に手放してよかったと思った。スッキリした。
別に無理して読むものでもなし。
いろんな人の物思いなら、至るところに溢れてる。
まず自分の心を思わずして人様に夢中になっても仕方ないじゃないか。
本を読むならその時間で体を動かしたい。
誰も強制なんかしていない。誰も。、、、そう、今は。
そして不意に、読書を押し除けてきた理由に合点がいった。
私にとって読書は、「強制」のアイコンになっていたのだ。
こういうことはやはり幼い頃の体験が原点になっている。

私の母は子供達を優秀に育てることに必死だった。
「金と教育こそ、親が子に与えることのできる唯一の愛である」というのが彼女の信念だった。
愛は形で示されるべきで、成果がなくてはならないのだ。
3人の子供を産み育てたが、育児書や子育てとはといった心や個性なるものに触れることも考えてみたこともただの一度もない人で、今となっては笑い話だが、当時の当事者たちはおよそ笑えない。
「ハイレベルの学校に通わせる」ことが子育ての目的でありゴールだった。
『勉強できて成績優秀→ハイレベル校への進学→ハイレベルな環境にはハイレベルな人がいる→そういう人たちと縁ができる→大学卒業と同時にいい男と結婚→人生安泰』
これが彼女の知る唯一の人生勝ち組コースの有り様だったのだから、仕方ないだろう。
教育の失敗は、愛の失敗であり、人生の失敗になるのだ。

こちらも「はーいママ♡」と言ってスクスクその通り育ち何の疑いもなく歩んだなら、それはそれで結構だし、なんだか楽しそうである。
どっこいそうはいかないから山のように子育て本が出版され更新され続けるわけで、私もご多聞に洩れず数歳の頃にはすでに母から「マズイ」烙印を押されていた。
以後、一人の人間の固着した枠の中でもがく一人の異なる人間の懊悩は、よくある話で珍しくない。昇華したその個人的部分的記録である。

私は勉強ができなかった。理解も鈍い。口も動きもとろく、体もぐにゃぐにゃですぐどこにでもへたり込む。「タコ」と呼ばれた。そしてよく寝た。
バカがぐぅぐぅ寝る図式に、母は一人キリキリ舞した。
少しでも頭を良くするため俄に訓練がやってきた。
「お話を読んであげる」
そう言って寝る時間に母が部屋に入ってくるのである。
部屋の真ん中に椅子を引きずり出し、腰をかける。本を開く。
動作の一つひとつから「この子を教育してやる」という教育ママの臭気が立ち上り、私はいつでも吐き気をもよおした。
機械的な読み声も、手で耳を塞ぎたいほどゾッとした。
必死に耐える時間だった。
大抵は、私の興味のない学研マンガの歴史本だった。時に「長靴下のピッピ」や「エルマーの冒険」だったりもしたが、読みあげられた途端、ふくよかな物語りは逃げ散り、無機質な分厚い壁に一変するようだった。
2段ベッドの上で寝ていた姉は、母の愛が欲しくて仕方のない人だったので、この時間が至福だったそうだ。えらい違いである。
さて、読み終わると母は徐に本を膝に置き、したり顔でこちらを見て言う。
「さぁ問題です。〇〇は、〇〇の時どうしたでしょう?」「出てきた登場人物の名前を3人答えなさい」
試験問題まんまの口調で質問が飛んでくるのである。
当然、吐き気・嫌気・忍耐の私がストーリーなぞ覚えているわけがない。
幸い上の段には姉がいる。超勉強ができマシンガン並みに口の動く姉が。
姉よ、頼む。
私は死体並みに硬直し存在を消すことに努めた。一刻も早く終え部屋から出て行ってくれるよう天に祈りながら。
姉がベッドから転がり出んばかりの勢いで即回答する。それでも、長い、長い、地獄の時間だった。
私の教育にまるで功を奏さないことを母も流石に悟り、そのうちやってくることも無くなった。恋焦がれていた姉にも酷い話だ。

私は軽い話を軽く読むことを好んだ。
昔話やファンタジーの世界に遊ぶことが好きだった。
母がよく行くスーパーの出口付近に、雑誌や子供向けの絵本が置かれたコーナーがあった。
手のひらサイズで厚紙の片側に絵、もう片側にお話が書かれた世界童話シリーズが回転式の本棚に置かれていて、買い物について行っては1冊ずつ購入をねだった。
(ある日、雑誌の中のエロのページをコソコソ読んでいたら、後ろを通った知らない外国人のオバハンに「バカですか〜?」と目を見開いて片言の日本語で言われたことがある。私はしょんぼりと雑誌を置いた。)
小学3年生あたりまで集め続けたからそこそこの数で、コレクションのようでなんだか嬉しくもあった。
学校から帰るとまず本棚の前にしゃがんで扉を開く。めくるめく異世界への誘いが眼前に広がる。本棚に顔をつっこみ、今日はどの世界で遊ぼうかと胸をときめかせた。

ある日、いつものように帰宅し本棚を開くと、何も無くなっていた。
がらんとして、ただ木の板がのびている。
あんなにあった世界が、一瞬にして消えてしまった。
私は慌てて母に聞く。「本は??」
陰で様子を見ていた母が部屋の前に立っていた。
してやったりという顔である。己の行為を疑わず、正当化するように顎を上げ、横目で私を見ながら言った。
「捨てたよ。もうあなたは文字の多い本を読まないとおかしい。」
お母様が捨ててあげたのよ、あなたの成長のために。さぁ、いらっしゃい。賢い世界へ…! という威厳だったのだろう。
こういう自己本位的な時の人間の笑みのいやらしさを、嫌と言うほど知った。

ファンタジーなら、こういう時、扉を開くとどこからかネズミがちゅーと出てきて、私を慰めてくれるはずである。
それなのに棚は沈黙するばかりだ。愛したファンタジーにも私は裏切られたのだ。物語は私を助けはしない。消えて、終わりだ。
ちょうど、私の方も何となくそれらの本に飽きを感じてきていた頃でもあった。扉を開いても手が伸びる本は限られていたし、何も選ばずに閉じる日もあった。
でも、私はその存在を愛していた。
むしり取ったりなんてしなくていいのだ。

そして、私は本を読まなくなった。次の段階へ移行するハシゴの段が突然奪われた感じで、何にどう移っていったらいいのかわからなかった。
当然、お前(母)の目論見通りになってやるものかという思いもあった。
一方で、「読むスピードが速いのがスゴイ」「本を読んでいるとエライ」という見栄のために学校では本を読んでいたが、心の肥やしになっていた記憶はあまりない。
読書感想文は最も苦手な分野だった。
中高時代もそんなに変わりはしない。私にとって本は見栄のためであり、実のところ中身の理解についていけない自分をなじるだけだった。
哲学本を開いても、古典を開いても、名作を開いても、本は私に冷たかった。
そんな時、片隅の絵本のコーナーが、ひっそりと私に優しかった。
(なぜかいつも手に取るのは「風が吹くとき」だったけれど)
社会人になってからは自己探求のために結構読んだ。遊び生き考えようとした人たちのエッセイや随筆がメインだった。

要は、本は私にとりどこまでも「知識」「勉強」「叱咤」のためだったのだ。疲弊するはずだ。
素直で自然な心の広がり、安らぎ、楽しみ、喜び、といったものが欠落したままだったのだ。
だから、本は私にとって圧力であり年を経るごとに重苦しさも増した。
なーんだ、ただそれだけのことだったのか。
私は自分で自分の頭を本でベシベシ叩いていたに過ぎない。
そんなことなぜ今まで分からなかったのだろう。
やっぱり、私はちょっと頭がトロいのだな、母よ。
でも気が付いた今は、自由にその広がりへと足を踏み込めるのだ。
頭が鈍いので広がりにいったまま帰ってくる道を見失いやすいのが難点だけど。

どうか、全国の読み聞かせのお母様方よ。
私のような子を生み出しませぬようと懇願する思いです。
情感を育み、その子の反応を慈しみ、共に物語る喜びと温もりを、ただ添えてくださいますように。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?