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この国のジェンダー平等への長い道のり



2023年2月28日、宇宙航空研究開発機構【JAXA】が、宇宙飛行士候補者の決定を記者会見で公表しました。
以下にハフポスト日本語版の記事から一部抜粋して引用します。

4127人という応募者の中から選ばれたのは、世界銀行・上級防災専門官の諏訪理(すわ・まこと)さん(46)と、日本赤十字社医療センターの外科医、米田あゆさん(28)だ。

記者会見ではそれぞれが合格への喜びや今後への意気込みを語り、記者からの質問に答えた。
その中で話題となっているのが、プライベートに関する質問を聞かれた米田さんの返答。

家族構成やパートナー・子どもの有無などについての質問に対し、米田さんは「家族に関すること、パートナーの有無に関することは、すいません。大変申し訳ないですけれども、プライベートのことで回答するのは差し控えさせて頂きたいと考えております」と毅然とした態度で答えた。

また、同じ記者による「若い女性という観点から、宇宙開発の事業にどんな貢献ができるか」という質問には、「私自身は特に若い女性であるという特性に対して、それを押し出して、と言いますか、それを意識してっていうのではなく、一宇宙飛行士候補生として頑張っていければな、と考えています」と返答した。
「パートナーはいる?」にぴしゃり。宇宙飛行士候補の米田あゆさん、プライベートな質問に対する答えが最高すぎた
ハフポスト日本版2023年03月01日より引用



彼女の職業は外科医です。
もし米田さんが男性だったら、こんな質問されてないですよね?
これは彼女の職業もそのキャリアも度外視した、あからさまな性差別によって為された質問です。

この質問の真意は、「女のくせに宇宙飛行士だって?夫と子供を放りだして女が宇宙に行くつもりなのか!?」という差別意識でしょうか?
あるいは質問者が個人的に、外科医で宇宙飛行士候補という彼女にジェラシーを感じていたのかも?
他にも、女性の社会進出を歓迎しない人々のために「メディアがあらかじめ用意していた質問」だった可能性も考えられます。
こんな質問が未だに当然のように出てくるせいで、世界基準から遅れまくった日本のジェンダー不平等と性差別意識が、今回もまた大々的に宣伝されてしまいました。

そもそも結婚していようが独身だろうが当人の勝手です。相手が男性なら、いちいち尋ねたりしませんよね?
なのに、「女性は結婚して子供を産み育て、家庭を守り、夫や子供に尽くすのが当然」といった固定観念にとらわれた人々にとっては、性差別よりも、これまでどおりの社会通念の維持ほうがよほど重要なのでしょう。
時代の変化を拒んで彼らに同調する一部の政治家やメディアの存在も、この国のジェンダー不平等の解消を妨げる一因になっています。

また、この種の固定観念や変化を拒む差別的思考は、男性だけでなく年配の女性にも多々見受けられます。
長年「女性の幸せは結婚して子供を産み育てること」だと刷り込まれてきたせいか、古い常識や価値観をアップデートできずにいる中高年女性も少なくないようです。
「自分たちの若い頃は…」という自慢話やお説教が大好きなのは、おじさん上司だけでなく良妻賢母自慢の年配女性も同じなんですね。
がしかし、オババ様たちがお見合い結婚して子育てとパートに励んだ時代とは、今は子育ての環境も共働き世帯の女性の負担も桁違いです。
オババ様たちの若い頃と同じ慣習や古い価値観を押しつけられても、現代の共働き世帯の女性たちはとても付き合いきれません。

これは若い男性社員におじさん上司が、「我々が若い頃はもっとがむしゃらに24時間がんばったゾ」などと説教するのとよく似ています。
そんなのは年功序列の昇給とボーナス、手厚い社員教育と終身雇用が約束されていた時代の話ですよね。
今は頑張ればそのぶん余計な仕事を増やされ、名のみの役職を与えられてサービス残業も増やされる。努力の結果が安くて都合のよい労働力として扱われることなど珍しくもありません。
無理がたたって心身を病んだら、復帰予定のない休職を勧められるか、契約終了で解雇になるのがオチ。だから24時間がんばったりしないのです。
おじさん上司たちの若い頃とは、今は常識も時代も違うのです。

結婚や子育てだって、昨今の女性は家事とワンオペ育児とフルタイムの仕事との掛け持ちに追われて、疲れ果てているのが現状です。
分刻みのスケジュールで保育園の送迎と買い物と家事をこなして、職種によっては勤務時間外でもメールや電話の対応が求められる場合もあります。
そこにさらにママ友や面倒なPTAだのの付き合いまで加わるわけです。
三世代同居の大家族の人手に恵まれた環境で、主婦と子育てとパートを兼業してもまだゆとりのあった時代とは、そもそも前提条件が違うのです。
時代おくれの慣習や価値観が現代では通用しないそれが理由です。


このくらい時代や事情が違っていれば、世代間の意識や考え方も断絶していて当然です。
断絶しないためには、お互いの歩み寄りと情報のアップデートが必要だし、高齢者の思い込みによる過去の経験の押しつけもやめるべきです。
そもそもこの国のジェンダー不平等がなかなか改善されない根本的な原因は、古い価値観や既得権益を手放せない者たちが、頑なに変化を拒んでいるからです。

その種の男性は、自分のことは「旦那さま」だと考えているのに、妻は「家政婦と母親と妻を兼ねる“嫁”」として、夫に尽くすのが当たり前と思っていたりします。
LGBTQに過剰に反応する政治家の本音を分析した際にも書いていますが、このような思い込みに凝り固まった人々の存在こそが、ジェンダー不平等の解消を妨げているのです。


では、ここで質問です。
今の時代、小・中学校でクラス委員または学級委員に選ばれるのは、どんな子だと思いますか?
クラスの人気者?勉強ができる子?リーダーシップがとれる子ですか?

もしそう思うなら、それは昭和の時代の記憶からくる思い込みか、せいぜい小学校低学年までの話です。
今どきの子供は、学級委員になると面倒な仕事も多いし、先生のお気に入りとしてクラスメイトに妬まれて孤立しかねないので、なるべく選ばれたくない子が多いのです。
それに学級委員として先生と接する時間が増えると、昨今は教師から性被害に遭う危険も増えますしね。
そういう心配から誰もやりたがらない場合は、推薦でおとなしい子を学級委員にして、自分たちがなるのを逃れようとするわけです。

そんなやり方で選ばれた学級委員だと、何かあれば学級委員だからと文句を言われたり、雑用係のように扱われることにもなりかねません。
みんなで口裏を合わせて、最初から雑用係にする目的で学級委員を選ぶケースもあります。
こうなると明らかにいじめです。
クラスみんなの推薦だからといって、誰がそんな役目を引き受けたいでしょうか?
当事者の子供はそれをわかっているのに、大人たちや教師はなかなか真実に気づかないケースも多い。
気付いていても、明らかな問題が起こるまでは見て見ぬふりをする教員も少なくありません。
だからいじめが蔓延したり、追いつめられて自殺する子どもが後を絶たないのです。

学級委員の選出ひとつとっても、昭和と令和とではこのくらい意識も実態も違っています。
「世代が異なれば常識も違う」という認識をもたなければ、見当違いのアドバイスや応援で子どもを追いつめたり、その自覚もなく差別的な言動に及んでしまう可能性があります。
いまだに女性の医師を「女医さん」、警察官を「婦警さん」と呼んで憚らないような人々は、その呼称が「今では性差別に当たる」ことを自覚するべきです。

もっとわかりやすい例を挙げると、「女弁護士」や「女刑事」や「女代議士」などもそうです。
女弁護士と対になるのは男弁護士ではなく「弁護士」です。刑事や代議士も同じで、男刑事や男代議士という呼び方はしません。
性別で分類する必要がある場合は、「女性弁護士」と「男性弁護士」となりますが、男性の弁護士は普通はただ「弁護士」と呼ばれます。
どんな理由でそれが慣習となり、どのような場面で使われてきたのか、そのあたりについても、この機会に少し考えてみてください。

そもそも何故「女性の呼称を男性と区別する」必要があるのか?
全ての職業に共通して男女を区別する呼び方があるわけではない。
が、ある種の職業分野においては、男性が自分たちと女性を区別せずにはいられず、わざわざ女性であることを呼び方によって強調しています。
そのせいで「なんだ女か。女弁護士でもちゃんと仕事が出来るんだろうな」などと、女性弁護士を見下すような物言いにおよぶ者が出てくるのでは?
以前はテレビなんかでよく見かけましたけど、今ならその場で差別発言を指摘されそうですよね。

こうしたジェンダー不平等に関して、この国は、これまであまりにも無頓着すぎました。
だから宇宙飛行士候補決定の記者会見でも、いまだに若い女性だという理由で家族構成などのプライバシーを詮索されたり、キャリアを無視して理不尽な質問を浴びせられるなどの差別が未だにおこなわれているのです。

こんなことがずっと当たり前に放置されてきたことのほうが、どうかしていると思いませんか?
がしかし、これらは家庭や学校や職場や社会で公然とおこなわれ、長いあいだ見過ごされてきました。
「社会通念」と呼ばれる言葉のもと、それがまるで人々の総意であるかのごとく、性別による差別が看過され続けてきたのです。

女性やLGBTQの人々に対する差別に共通点が多い理由にも、この社会通念は関係しています。
社会通念とは一般的な考え方のことで、その大半は根拠のない思い込みに過ぎません。明確な定義やルールによって定められたものではない。
けれど、これを「みんなそう思っている」という認識で共有し、用いた場合はどうでしょうか?
多数派による同調圧力は、性別や人種、少数派に対する差別に非常に繋がりやすい。
これまで公然とおこなわれてきた性差別も、子どもを自殺に追い込むいじめも、根底にあるのは同じようなものではないでしょうか。


少し前になりますが、岸田首相が「同性婚制度の導入は家族観や価値観、社会が変わってしまう課題だ」と国会で答弁していましたよね。
彼がLGBTQについて本当に真剣に考えたことがあるのか、疑わしいものだとわたしは見ています。
変化や多様性を受け容れたくないという本音を、もっともらしい言葉を並べて飾ってみせただけで、おそらく彼は真面目に考えたことすらないんじゃないかと思うのですけどね。

彼の打ち出す政策や少子化対策などから見てとれる感性は鈍く古臭く、どこまでもステロタイプです。
彼の考える学級委員は、成績優秀なクラスの人気者が選ばれる名誉な役職…そのあたりで止まっているだろうと思われます。
おそらくジェンダー不平等に関しても似たり寄ったりの可能性が高い。
一国の首相からしてこの体たらくでは、この国のジェンダー平等までの道のりが長く果てしないのもよくわかります。

今日3月8日は国際女性デーです。
残念ながらこの国には、この日の存在だけでなく、理由すらも理解していない人々がまだまだ多いようです。


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