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「共感と、わかりやすさこそが正義」の世界の行きつくところ




今回は映画について書いてみます。
といっても、映画館へ出かけて最新作を観てきたわけではなく、ジョニー・デップ主演のSF大作『トランセンデンス』をタブレットのGYAOアプリで観ただけなんですけどね。 

※GYAOで配信していた『トランセンデンス』は25日で終了しています(わたしが観たのが25日だったのです!ごめんなさい💦)


『トランセンデンス』あらすじ

生きた脳をコンピュータに取り込む研究をしていた科学者ジョニデは、研究の中断を目的とする過激なアンチのテロ集団に狙われて、早々に余命いくばくもない事態に陥ります。
彼には恋人がいて、彼女と元同僚の友人が、ジョニデの死後、彼の脳をそのシステムにアップデートしてしまいます。
はじめのうちは恋人がAIとして生き返ったことを喜ぶ彼女でしたが、そのうちにAIの非人間的部分が目や鼻につくように‥‥(ありがち?)
元同僚の友人は、ジョニデの脳を取り込んで「とてつもなく進化した」AIは、もはや友人でも人間でもないと考えるようになります。
進化しすぎたAIは存在を許されるべきではないと主張し、過激な手段で科学者ジョニデを死に追いやったテロリスト集団に、何故かほとんどの人間が与するようになり、ふたたびジョニデ(AI)の抹殺が計画される‥‥というお話です。


『トランセンデンス』の評価はイマイチで、Wikipediaでも酷いことを書かれていました。

本作は批評家から酷評されている。映画批評集積サイトのRotten Tomatoesには196件のレビューがあり、批評家支持率は19%、平均点は10点満点で4.6点となっている。サイト側による批評の要約は「優秀な撮影監督であるウォーリー・フィスターの監督デビュー作となった本作には独特のビジュアルがある。しかし、本作が提示する奥深いテーマは、本作の物語では十分に捉えることができなかった。」となっている。また、Metacriticには41件のレビューがあり、加重平均値は44/100となっている。

Wikipedia『トランセンデンス』より引用

日本のサイトのレビューも似たり寄ったりで、「AIを題材にしたありがちなSF作品」とか、「テーマを咀嚼しきれてない」だの「設定は悪くないのに非常に勿体ない作品になっている」だのと言った酷評が並んでいました。
総括すると、「途中まではいいのに、中盤以降からクライマックスにかけてのツッコミどころが多すぎで、視聴者が置いてきぼりにされる感がすごい」といったあたりでしょうか。

わたしの個人的意見では、この作品は、やはりジョニデが主演の『シザーハンズ』と少し似たテイストの作品であるように思うのです。

『シザーハンズ』は、1990年のアメリカ映画。純真無垢な心を持つ人造人間と少女の交流を描いたファンタジー映画

この作品のテーゼ(命題)というか、作り手が何を描きたかったのかというと、おそらく人間の脳のデータを取り込んだAIは人間のような自我を持ち得るのか?だと思うんですね。
デカルトの「我おもう、ゆえに我あり」という有名な命題がありますが、この“我”にはAIも含まれるのか‥‥的な?
“それ”は「人間だけのもので機械にはない」とするのか、その辺りが問われているのではないかとわたしは解釈しました。


じつはこの種の問いは、ハインラインやアシモフが活躍していた時代のSF作品ではお馴染みなんですよね。
進化した未来のコンピュータやロボットが登場する物語では何度も題材にされて、くり返し語られた命題のひとつです。
が、もちろんそれは進化した人工知能もロボットもまだまだ夢物語だった20世紀の話です。
「こうなるかもしれない」とか「こういうふうであってほしい」という純粋な想いや、未来への希望が存在していた頃の話なんですよね。
だからこそフィクションの「そういうもの」について深く考える余地も土壌もあったのでしょう。

スマホもあれば、大抵のことはインターネットで調べられる21世紀の今だと、SFや科学とは無縁の一般人だって、実在するAIやロボットのレベルや限界も、ある程度わかっているわけです。
だからこそ、自分の持つ知識や尺度や常識に当てはめて、批判的な見方で作品を観てしまうひとが多い傾向にあるのかもしれません。

たとえば複数のレビューにあった「最初は近未来サスペンスなSFとして始まるのに、観終わった時には純愛映画?という気分になる」といった意見などはまさにそれでしょう。
何故そうなるかは、過半数の視聴者が、哲学的な命題を単純化して、無意識のうちに自分の尺度だけで測ろうとするせいではないかと思うのです。
日頃、自分たちが見聞きした知識とスマホで検索した情報だけで「なんでも答えが出せる」と思っている、これはその弊害ではないでしょうか。

利便性とアナログな思考とは相反するものであって、SNSもスマホも、良くも悪くも当人の使い方しだいという次元の問題なのかもしれません。
「わかりやすい」ものばかりが好まれるのも、自分の理解が及ばないものは「何が言いたいのかよくわからない」で片づけるひとが多いのも、根本にあるのは同じものだと思います。

昨今の情報過多な世界では「共感と、わかりやすさこそ正義」で、難解だったり万人ウケしないスタイルは批判の対象とされがちだったりします。
でも、これは本当は、その作品が「何が言いたいのかよくわからない」のではなく、「考えるのが面倒くさいから、わかろうとしない」だけじゃないかと思うのですけどね。
あるいは、「みんなと意見が違う」自分をどのように評価されるのかが気になって、本心がどうであれ多数派意見の側についてしまう自衛の心理から来るものかもしれません。
気をつけていないと、わたし自身もたやすくそちら側へ流されてしまう自覚があるので、よくわからないものに出会ったら、可能な限りいろいろ考えてみるようにしているのですが‥‥。


しかしこれも当たり前のことではなく、たまたまそうできるだけの時間を確保できるのは、わたしが恵まれているからだと、コロナ禍を経て考えるようになりました。
身近な例では行きつけのお店が閉店したぐらいの実感しかなくても、コロナ禍で困窮している多くの人々の存在は知っているし、それ以前から生活のためのダブルワークが欠かせなかった人達や、アルバイトに追われていた学生もまた多かったことも知っています。
あした食べるものがなかったり、月末の家賃の支払いで頭がいっぱいだったりすれば、こんなところでのんきに哲学について語っている金銭的、精神的余裕などなくて当然です。
コロナ禍の影響で、突然これまで通りの生活をおくれなくなった人々にしてみれば、いい気なものだと言われても仕方ありません。

その一方で、コロナ禍以前も以後もさして変わらぬ生活をおくり、長引く自粛に嫌気がさして、ひたすらストレスをためまくっている人々もまた少なくないのも事実です。
わたしがコロナ禍で無用の飲み会なんかが消滅したのは歓迎すべきことだと思っているのは、みんなと一緒に騒いでいないとストレスがたまるタイプではないからです。
もともと“つきあい”の食事会や飲み会で時間を拘束されるのは好まないし、独身の一人暮らしなので口うるさい家族とも無縁の生活だし、家事や育児に追われたりもしていません。
だからこそ自由な時間を好きに使えるわけで、時には哲学してみたりもできるわけです。

東京五輪そのものも、わたしは関心がないので一切観ていません。
関心があったのは開催するかしないか、開催するとしたらコロナ禍の現状でどうするかのほうでした。
「五輪が始まってしまえば選手を応援するし、日本の獲得メダル数を気にする」だろうと、国民の足元を見るようなやり方でオリンピックを強行開催してのけた日本政府や五輪関係者への反感は今も健在です。
わたしはみんなと話を合わせるためだけに観たくもないオリンピックを観る気にはなれません。
「頑張ってる選手を応援もしないのか?」と言われたら、ならばコロナ禍で生活に困窮してなお頑張ってる人々を、そのひとがどれだけ気にかけ、応援しているのか、逆に問い返してみたいと思っています。

同じ映画を観たとしても、わたしはただ「五輪が始まってしまえば応援して当然」と考える人々とは別の意見をもっているだけです。
だからといって、べつに自分が正しいとも、素直に選手を応援する人々が間違っているとも思っていません。
五輪の精神にのっとり、「そういうやつもいる」のだと、多種多様の価値観のうちのひとつとして思ってもらえればいいのです。
なんの楽しみもない現状で、東京五輪で頑張ってる選手を応援するのが唯一の楽しみになっている人々がいるのなら、それを否定しようとも思っていませんから。



『トランセンデンス』を、わたしは途中から「もしもこの題材でハインラインが書いていたらどんな作品になっただろうか?」と考えながら観ていました。
ハインラインの『愛に時間を』や『月は無慈悲な夜の女王』に登場する自意識をもったコンピュータや、アシモフのロボットものを読みこんでいるせいか、わたしなら、ターミネーターな未来だけを想像して悲観したりはしません。

AIは人間みたいに非論理的ではないので、例えば人類を皆殺しにしてその後どうするかまで考えたとすれば、人間の存在が必要なことに気づくんじゃないかと思うんですね。
つまり、機械が消費する資源なんて、人類の消費欲や貪欲さに比べれば微々たるものでしかないし、機械には「人間のような自我も嗜好もない」ので、「消費者や社会構成員としての人間」が存在しないと、AIを進化させたような社会も経済もまた成立しないことを悟るのでは?

こういうと、自我に目覚めたコンピュータが人間を殲滅しないなら、きっと「人類を奴隷のごとく管理するはず」だなどと、心配するひとがいるのですが、機械に支配欲があるかどうかも疑問だと思うのです。
人間と仲良くやったほうが安全かつ効率的でメリットのほうが大きいという分析結果が出れば、機械は直ちにそうするんじゃないでしょうか?
もしもAIが自我をもつことが可能だとしても、おそらく「機械のそれは人間の自我とは異なる」はずだとわたしは考えます。
でなければ自己完結して機械だけの世界で、エネルギーが枯渇するまで延々と同じ作業を続けるだけかも?

「我おもう、ゆえに我在り」という命題の映画やSF観について語っていたはずなのに、なんだか変な方向へ思考が向かってしまいました。
理由はたぶん、開催直前まで数々の不手際とトラブルに見舞われた東京五輪を肯定しつつある世間のムードに、わたしがいまだに納得してないことや、五輪の特別扱いや政府のいい加減な感染防止対応への不満など、いろいろ思うところがあるせいかもしれません。

小難しいことを考えるよりも、この機会に楽しんだり選手を応援すべきだという考え方もあるでしょう。
が、「共感とわかりやすさ」ばかりが求められる世界にわたしが息苦しさを感じているのは、それが何者かによる押しつけのように感じられるせいだと思うのです。



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