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1990年8月 研修の名のもとにソ連・モスクワと各地 08

【まとめ】Ленинградレニングラードに到着。一泊減ったらしいのでかなりぎゅうっと詰め込んで観光。2泊後は怒涛のモスクワ返しとさらに帰国前のハバロフスク1泊が待っていた。

8月24日(金) 曇り レニングラード
午前中の記憶なし。もしかしたら団体でГосударственный музей-заповедник "Петергоф"ペテルゴフ宮殿方面に行ったかな?

フランス語で「小さな喜び」という場所
(現在地図上で未確認)

午後は市街地を散策。
Исаакиевский собор聖イサク寺院(聖イサアク大聖堂)。昨年春にも訪れていたが、相変わらずがらんと広く、厳めしい。
参考に、昨年撮った内部の写真。

今回は暗くてフラッシュなしでは写真撮れないと諦め、床のモザイク柄を観察する。いろいろあってうっとりする。

写しててわかんなくなったもの
帰宅してから描き直したもの


15:30頃からエルミタージュ美術館に(希望者のみ、だったかな)。ここも昨年春に友人Sとたっぷり見て歩いていたので、今回はおさらいという感じ。
それでも数時間はかかった。

キリル文字の石板
りりしい狛犬
見事な大理石のモザイクテーブル
館内から眺める勝利の広場

18:00 解散後、ふらふら歩き回る。
ネヴァ川のほとりに立ってみる。大陸的なおおらかさと海辺に近い解放感をおぼえる。

練習船

ペドロパブロフスク要塞近くのトイレは10カペイカだったがあいにく細かい持ち合わせがなかった。困っていたら、トイレの番人のおばちゃんが、いいよ!とタダで入れてくれた。お礼に飴を渡したら喜んでくれた。

近くの公園はとても静か。じいさんと子どもが遊んでいるだけだった。

前方にツアーメンバーのЮユー(大学生女子)を発見。大声で呼んだら、なぜか前方に走っていってしまった。ちょうど来たトラックに危うくひかれそうに。よかった間一髪。

ネヴァ川沿いに歩く。釣り人が多い。腹びれ、胸びれの赤い魚をよく釣っている。

通行人と釣り人

狛犬のついた桟橋をみる。

近隣のスタンド案内
スタンドもみつけた

宿の近くでこんなカラフルな小屋とサイドカーを見かける。
小屋だと思ったら、交番だった!

20:00 レニングラードホテルにて夕食。
21:30頃 オリギノに戻る。濡れタオルに巻いておいた缶ビール(ツボルグのゴールドラベル)が良い感じに冷えていた。
外気温は朝方11度なので、冷蔵庫なみかも。

Kさんから「昼間、ネヴァ河沿いをひとりで歩いてたでしょ? 声かけようと思ったけど、あまりにも真剣な顔してたんで(笑)」と言われた。
多分、もうじき日本に帰るけど、帰ったら仕事探さなきゃ、何やろう…と考えていたのかも。

8月25日(土)  レニングラード

7:30 までにトランクを出すように言われていたのであわてて支度。
7:45 朝食
8:30 出発
9:40 空港着

初めに覗いた店はレジの故障で「にえらぼーたえと(うごきません)」と言いながらシャッターを下ろしてしまった。次の店、小さい缶ジュース(多分ミニッツメイド)買おうと聞いたら1ルーブル。
250円くらいか。
円でも買えたがお釣りが1万円が9千円と5ドルと。ぼったくり感が。

乗る飛行機は結構待たされる。最初に陽気なイタリア人一行が乗り込む。どこで手に入れたかカーキのロシアの軍帽を被ってる人が多かった。

14:20頃 モスクワ着。
16:00頃 ウクライナホテルで豪勢なご飯。
17:30 インツーリストホテル前から出発。
21:30 ドモジェドヴォ空港を発つ。7時間の空の旅。
23:00過ぎにまず、ご飯。

タン、赤ピーマン乗せご飯、イクラとキュウリ、黒パン白丸パン、
焼き菓子、バター、インスタントコーヒー

ご飯の後、かなり揺れる。
その後、1、2回軽食が出る。

8月26日(日) 晴
4:20頃 ハバロフスク着。時計を直す。何やかんやで気づいたら正午になっていた。
14:00 昼食。
昼食後、現地のガイドさんがふたりついて、アムール川遊覧と市内観光。
大学生の青年ふたり、ИイーくんとГゲーくん。
バイトなのだそうだ。
大学生だが、ふたりとも既婚。本人曰く、ソ連は独身税というのがあって、皆早く結婚するのだと。離婚率も高いらしい。
ウラジオストクの大学の日本語学科にいるそうで、数は200人程度。発音やイントネーションがとても自然だが、彼らは「ラ行が難しいです」と言っていた。

Гくん案内す

アムール川は広大で水量多く泥濁りで川風が心地よかった。

Иくんとメンバー、遊覧船にて

赤レンガの建物が所々目立つ。立派なレンガ造りの建物の前で、Иくんが「これ、戦争で日本人の兵隊さんがたくさん捕虜になりました。で、彼らが作りました」と説明してくれた。
(注:日露戦争後からここに居留した日本人も多く、日本人が建造に係った建物も多いらしいが、捕虜が実際動員されたのかは未確認)

赤レンガの建造物と市内の人びと
多分救急車

明日には帰国便に乗らねば……朝からハバロフスクを堪能しないと!ととりあえず早めに寝る。

(注:ハバロフスクではちょっと記憶に勘違いあったので、次回詳しくたどり直します)

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