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消えたい、が消えない。

消えてしまいたいと衝動的に思うことが増えた。十年くらい前は、そんなことさっぱり思わなかった気がする。忘れたけど。でも、友達が一人もいなくても消えたいと思わなかったし、仕事に行きたくなくても(これで命を取られるわけでもないし)と自分に言い聞かせて仕事に行く程度で消えたいとは思っていなかった。潜在意識の話は知らんけど。

この消えたいという気持ちはここ数年、振り返ればやつがいる、みたいな感じでつかず離れず私と共にあるのだけれど、年々大きさを増してちらつくどころか足元に影のようにひっそりと寄り添ってくれていたりする。別に望んではいない。

生涯かけて寄り添い合いたいわけではない。消えたい、には悪いが、私は君と添い遂げたくはない。消えたいから逃げたくて、どうにか気を紛らわせようと思って日記を書いた。雑記も書いた。けれど消えないのだ。どうしたらいいのかわからない。ただ困惑して途方に暮れて、泣きたくなって。何か邦楽の詞にありそうなことを書きだしてしまった。

こんな話をネットに上げるなと思う人もいるだろうし、そんなもんでお金を取るの?と不快に思う人もいるかもしれない。だけど、どうしてもどうしても吐き出してしまいたくて、有料記事にしようと思った。

鍵をかけることに似ている。

自分勝手な鍵もあったもんだな。

※8/11で有料記事設定しましたが、8/12に無料設定にしました。
(ただ、急に削除するかもしれません。)



消えたいと思った時、それは死にたいと何が違うのかと思われるかもしれないが、私のそれは死んで楽になりたいというより、泡のようにしゅっと消えてしまいたくなるという感情に支配される。大体にして、死ぬっていうのは生きるの対極にあるだけあって、大変だ。イマドキ薬でなんて簡単に死ねないし、死ぬ方法を探しても、生き残ったらもっと大変なんだなあと思う事例で溢れていて、それなら自分で選ぶなら、生きてる方が楽なんじゃないかとすら考えてしまう。

さっき調べたけど

実際に計画や行動には表れていないものの、死を強くイメージすることや死を願望する場合を「希死念慮」、自殺をしてしまいたいと考えることを「自殺念慮」という(看護師の用語辞典より)

らしい。これが自殺企図とはまた違うらしいから、言葉一つとっても色々複雑だなあとぼんやり思う。消えたい私は何に当てはまるんだろう。どれも違う気がするあたり、生きる気満々じゃないか。

職場で、髪を切ったことがある。ハサミを持ち出して、トイレで。少しだけだったのが、時々エスカレートして、うなじ辺りでひとつに結んでいた根本からばっさりと切り落としたこともある。当然、数分前とビフォーアフターしているはずなんだけれど、自己申告しない限り特に指摘されなかった。それが気遣いなのか、はれ物に触れるような扱いだったのか、はたまた本当に気付かれていなかったのか、それはわからない。

自傷行為ではない。髪を抜くならともかく、髪を切るなんてどんな心理状態なのか調べても出てこなかった。ただ、これは私がメンヘラなのではないかと思っていた。メンヘラの定義が恥ずかしながら実は未だによくわかっていないのだけれど、その時の私は、自分のメンタルの危うさを気付いてほしい・案じてほしいという気持ちを「みせびらかす」ことがメンヘラなのではないかと思っていたのだ。

結果で言うと、別に案じられはしなかった。自己申告しても反応に困られただけだった(そりゃそうだ)。

切ろうとすると「なんで」と訊かれた。なんでってなんで?切りたい衝動から切るんだけど。さらに詰めると、逃げ出したいんだけど逃げるわけにはいかないから代償行為で切っている。そしてそこには「ここまで苦しんでるんだから誰か助けてよ」とか「逃げ道をくれよ」とかいう、私のひどい甘えが隠しきれずに顔を覗かせていた。

「切ったらすっきりするの」とも訊かれた。するわけがない。しても一瞬だ。そして切ったあとにあるのは「取りあえず一日乗り切るしかない」という諦めだった。消えてしまいたいけれど死にたいわけではないというのは、こういうことだと思っている。

自ら死を選ぶ人が実際にその瞬間を迎えるのは、ある種の衝動であり、常々思っていたことを実行に移してしまう「一瞬の事態」が起きた結果であると何かで読んだ。死にたいと思っていても、ご飯が美味しいこともあるし、ペットが可愛いこともあるし、一秒たりとも笑えないわけじゃないから、いざその時が来たら、結構周りの人は「なんで?」と取り残された気分になるのだろうが、私だって別に四六時中消えたいわけじゃないし、仕事のことを毎日憎んでいるわけでもない。世界が平和であればいいと思うし、美味しいお肉を食べたいときもあるし、某歌劇とかマンガや小説で満たされる瞬間だってあるよ。

それでも消えたいと思う。自己嫌悪にも似ている。二つは違うものだと思っている。抑うつ状態が先か、自己嫌悪が先か、自律神経のぐだぐだが先か、最近もう本当にわからなくなってきているんだけれど、それでもそういうものの先に、弾けるように浮かぶのが消えたい衝動なのだ。稀に消えたいが死にたいになることもあるけれど、根本的に二つは私の中で並立していて、消えたいの発展形が死にたいであるとは思っていない。

十年くらいパニック障害と付き合っているけれど、私はいまだにあいつの飼い馴らし方も付き合い方もよくわかっていないし、そもそも自分は本当にパニックなのか?と疑問に思うこともあった。コロナで普段かかっていた病院に行けなくなり(越県するから)、近場で探したところで取りあえずお世話になっているのだけれど、必要があって診断書をもらったら「鬱」って書いていた。先生にも「鬱の治療をしていきましょう」と言われた。

え、私、鬱なの?

二年くらい前に発達障害の検査を受けた。結果としてはグレーでしかないので特にすることもなく、自分の方向音痴というか地図が読めない・道が覚えられないとかそういうのが、努力不足ではなく特性であることを知ったし、マルチタスクに混乱しやすい性質でもあると数値的に明示されたので、納得して終わった。そうか、努力不足ではなかったのか。努力して補完する方向にも行けるのかもしれないけれど、別にこの点で自己嫌悪になることもないし、別の方向を伸ばして補えばいいのか、と妙に前向きにとらえることができた。きっかけは市の窓口でぽろっと「最近消えたい欲求が消えなくて。あはははは」と軽く漏らしたら、その日がちょうど心の相談室の日で、即行連行されて障がい者手帳3級あたりの申請を勧められたことだったと思う。

え、私、3級該当クラスなの?

寝耳に水が多い日々である。

その後の私は、手帳の申請をしたわけでもないし、グレーゾーンの検査結果を他人に伝えることもしていない。伝えたところで、何も変わらない。初めましての心療内科受診やカウンセリングの際に持参することはあるけれど、それで何が変わるわけでもないから、もしまた病院が変わっても、資料の一部として提示する必要性があるのかはわからない。

HSP(ハイリー・センシティブ・パーソン)という概念が昨今登場しましたよね。自分が何かわからない袋小路で、当時の主治医やカウンセラーに「子供がするものだから大人がしても正確な数値はしっかり判定できないかも」とやんわり制止されているような空気の中、発達障害検査までした私はそれにも飛びついて、ネットで調べた。本も探した。「非常に感受性が強く敏感な気質もった人」という定義。チェック診断で出た「あなたは中度のHSPです」という一文。そうかそういう場合もあるのか、と日記にまで書き込んだけれど、これは気質であって病気ではないし、認知度も低いと思う。そして私をがっかりさせたのは、何より「自分がHSPではない可能性の方が高い」と気付いてしまったところにあった。私は共感力が低く、他者の感情を読み取ることが苦手だし空気を読み取る能力が低いと思っている。そもそもが違うのだと思った。

パニックなのか、鬱なのか、自律神経失調症なのか、発達障害グレーゾーンなのか。はたまたHSPという気質があるのか。私を定義するものは曖昧で私自身わからないし、それをアイデンティティとして生きていくのもどうかと思う。普通っていうのは分母に対して分子が多いことを指す言葉だと思う。100人中の85人がそこのグループに属しているとか。でもその85人だって無理していないとは言い切れないし、そうあるよう努力しているだけかもしれないし、そうなると普通ってなんだろう。完全なシロってなんだろう。

窓の外の天気が良くて、でも身体が動かなくて横になっているとよくこんなことを思う。この先どうなるのかなと不安にも思う。親に孫の顔を見せてあげられないんだろうな、と年齢を重ねるだけの今、しみじみと思う。申し訳ない気持ちがある。同じ年頃のひとが親になっていたり、年下が「もうおばさんだ」と呟くのを見るともやもやする。でもそれで消えたいなあとはあんまり思わない。

消えたいというのは、色んな要素が小さいながらに絡んでもつれて、ほっそいネックレスがほどけない苛々したあの感じみたいな時や、何とも言えない孤独感とか寂しさが限界突破しそうになった時に現れると思う。

ねえ、どうしたら、いいんでしょうか。

答えはない。

死にたいんですと訴えられたら、命の相談室のひとだってありったけの言葉を示してくれるだろう。病院だったら下手すりゃ入院かもしれないし、カウンセリングもそうかもしれないけれど、何かしら、別の方法を指し示そうとしてくれるだろう。ここまでくると他人任せだが、思考がそれに支配されているなら他人にでも任せられるなら任せりゃいい。そしたら明日のごはんが美味しいと思うかもしれない。

ただ、消えたいんですと訴えた時、相手は一様に困った様子を見せる。命の相談室に電話したこともあるけれど、症例は「髪を切る」だし、訴えは「消えたい」だしで、相手の困惑がひどくて謝って電話を切った。病院でもカウンセリングでも、かみ合わないことの方が多い。仕方ない。医者はカウンセラーではないし、カウンセラーは医者ではないから。そして私にとっては唯一の藁(言い方が他に浮かばなくてすみません)でも相手の方は常時千本ノックで色んな人の心と健康を守らねばならぬ医療職だ。消えたいとい曖昧な概念は、私の想像でしかないけれどボーダーラインが過ぎて扱いに困る代物ではないのだろうか。訴えている方が必至なだけに無下にもできない。

消えたい私は、日常的に顔を出す。色々な諦めとまだ諦めきれなくて他の何かを探索しながら、消えたい消えたいと時々ノートに書いて(紙の方のね)付き合っている。大抵しばらくすると、向こうも落ち着いたのかひっそりとまた隠れてくれるけれど、今日はどうにも調子が悪くて、珍しいことにノートに書いても収まらず、文章が「消えたい」から「死にたい」に変化してしまった。これを打っている現時点で幸い「死にたい」瞬間は過ぎ去ったけれど、「あ、消えたい。今すぐに」という一時間ほど前の感覚が未だに薄れていなくて困惑する。

そしてとてもとても泣きたくなった。読んでくれている人にはどうでもいい話だろうが、私には同居人がいるのだけれど、付き合いがまあまあ長いからか調子が悪いことを察して「調子悪い?」と訊いてくれることはありがたい。だけど最近とてもとても、その人のため息が気になることが増えてしまった。「休みたいなら休めばいい」「仕事が合わないなら転職の道もある」と言ってくれるけれど、気付いているのかな。その後、ため息が漏れているの。「疲れた」と帰ってくる人に、「お疲れ」と返せる心の余裕や思いやりが自分に欠けている。同時に、何で普通にゲームしてるの?私はご飯の支度やら風呂の準備をしているのに?ご飯はできたのにゲームばっかりしてるね?朝もまずゲームだね?とダークサイドに染まるとそればかり気になってくる。ゲームの音すら、場合によっては聴覚過敏気味の私には辛い。ゲームをするのが趣味なのだから、それは権利のはずなのにね。

消えてしまいたい、と思う瞬間は、日常いろいろな場面で遭遇する。もういやでいやで仕方ないけれど、消えてしまいたい気持ちは、幸い現在永続的なものではないからまだいいのだ。そうして付き合っているけれど、ため息だとか、苛々した様子で洗濯物を片づけるとか、そんなんするくらいなら何にもしていらんと思う。お腹がすいているけど何を食べたらいいかわからないという訴えに「じゃあ食べないんだね」と言われて悲しいと訴えても通じない。

今日は運が悪い日なんだ。お互いに。私は調子が悪くて、降下中で、相手も疲れていて、家族に電話しても気は晴れなくて。だからどうしても消えたいが消えないんだ。

そういうことにして、私はこの記事を書き殴ることにした。こんな言葉が誰かの救いになるとか娯楽に値するなんて思えない。本当にチラシの裏に書けばいいようなことでも、誰かに聞いてほしくて仕方なかった。

通り過ぎにこれを見てしまったそこのあなた。流れ弾に被弾していないことを願っています。

凄まじく図々しいお願いですが、明日の私は朝から「消えたい」と思わず「今日も元気だご飯がうまい」と欠片でも思っているように祈っていただければこの上なくありがたいことです。

自分でも引くくらい、支離滅裂な記事ですが、お付き合いくださりありがとうございました。

お借りした画像、空を仰ぐ芙蓉だそうです。気持ちが落ち着いて、自分の内面以外を考える余裕が、明日の私にもありますように。

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