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孤独愛について思う事

普段、仕事でトラックを運転していると「孤独」でいられる事に至福を感じる事が多々ある。
孤独を好む性分だからこそ、運送という仕事に身を置いている訳で何を当たり前な事をと言われるかも知れないが、至福に感じるのだから仕方がない。孤独愛と言うべきか。

だが面白い事に運送に携わる人達全てが孤独好きかと言うと、そうでもない。
どちらかと言うと話好きが多いように思われるが、それは普段1人でいる事が多い故に人と接するという事に対して無意識の内に渇望しているからだと思う。

翻ってみて、自分はどうなのか?

近年、人と話したい時と話したくない時の差が大きくなりつつあるのだが、その症状が果たして職業病によるものなのか、孤独を純粋に愛している故なのか、単に躁鬱が激しいだけなのかは判然としない。

只、他の職業と違って、簡単に孤独になる事が出来る環境に恵まれている事に妙に居心地が良い事だけは確かである。

この「孤独」若しくは「孤独感」という心理状態に対して好きな人もいれば嫌う人もいる。
一体、孤独とは何なのか?

突然だが、「孤独」という言葉をWikipediaで調べてみる。

孤独(こどく、英: solitude)とは、精神的なよりどころとなる人や、心の通じあう人などがなく、さびしいこと[1]。

「自分がひとりである」と感じている心理状態を孤独感(loneliness)という。

たとえば、物理的には大勢の人々に囲まれていても、自分の心情が周囲の人から理解されていない、と感じているならば、それは孤独である。当人が、周囲の人たちとは心が通じ合っていないということに気付いていれば孤独である。たとえ周囲の人々の側が、その人と交流があると勝手に思っていても、当人が、実際には自分が全然理解されていないと気付いていれば孤独である。

Wikipediaより


…………何だか分かった様な分からない様な。


どうも「孤独」や「孤独感」を頭から否定的に捉えている感があるのは私だけだろうか?

以前、「2つの孤独」という記事にも書いたが、能動的に孤独を愛する人間も多くいると思う。
他の記事では呻吟しながら書くが、孤独に関する記事は一瀉千里で書いてしまうのも、自分にとっての孤独とは誠に離れ難いものに違いない。

誤解を恐れずに言えば、孤独とは架空の桃源郷の様なものであり、現実からの一時的な逃避行動の根本的な動機ではないかと思う。或いは一種の麻薬の様なものかも知れない。

人間関係を含めた現実生活に対しての閉塞感、や絶望感の果てに行きつく想念は皆同じである。孤独を一時的に欲する事は自分をリセット出来る一服の清涼剤の様なものではないか?

孤独になりたいスイッチをオンオフ出来る内は健全だと思うが、生きていく中で自分の中に孤独という領域を無理に広げて行くと危険を伴う。
人間は完全な孤独の中で生きる事が出来ないが麻薬の様に孤独を求めようともする。

そして、現実世界に生きている以上、孤独の中に身を沈める事なく又、元の現実に引き戻されていく。
私の場合はトラックに乗っている時とそうでない時で上手く孤独をオンオフ出来ている状態にあると思うのだが、やはり能動的に孤独を欲する性分らしい。

しかしながら、自由律句を極める為に常に孤独と共に生き、孤独を愛そうとした尾崎放哉や種田山頭火でさえも孤独その物に耐える事が出来なかった事を鑑みると、「孤独愛」に対して少し考えを改めなければいけないとも感じてしまう。
孤独を愛するという事はある意味人生を賭ける事。命懸けの思考かも知れないのだ。


…………孤独に対して連々と駄文を重ねてみたものの、一向に孤独その物に嫌悪感を抱かないのも、危険と分かっている麻薬にドップリと浸かって抜け出せない手遅れの状態なのかも知れない。


最後までお読み頂き有り難うございました。 いつも拙い頭で暗中模索し、徒手空拳で書いています。皆様からのご意見・ご感想を頂けると嬉しいです。