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熱狂について思う事

もうすぐ梅雨入りである。春を感じている余裕もなく、ただ時間だけが異様なスピードで過ぎてゆく。正に光陰矢の如しである。

物理学出身の哲学者だった大森荘蔵は「時は流れていない」という大胆な仮説を打ち立てたが、我が身が直接感じる事は「時の流れ」以外の何者でもないので、今でも大森の言う仮説には理解が出来ない。当たり前の事象を疑う事なく受け入れているだけかも知れないが。

さて、季節が暖かくなると野球シーズンの到来である。
コロナが猛威を振るう前は春先=プロ野球シーズンという図式が毎年の如く世の中を賑わし、観客が揃いのユニフォームを着て街を闊歩する姿が散見されたが、コロナ禍では流石に自粛ムードが蔓延していた様である。

今年はと言うと、周りの人々もコロナに慣れたのかトラックの車窓からはコロナ前の様に同じユニフォームを着て街を闊歩する姿をよく見るようになった。野球ファンからすれば喜ばしき状況なのかも知れない。

そこで少し疑問に思うのだが、野球ファン(又はサッカーファン)が当然の様に行う「応援するチームのユニフォームを着る」という行為は何時から始まったのだろうか?
私の記憶が正しければ、昔はそういう習慣は無かったかの様に思う。


何故、お揃いのユニフォームを着るのか?

皆が揃って応援するチームのユニフォームを着る行為について、大まかに言って理由は2つあると思う。

①「応援する周りの人々がユニフォームを着ているから」
②「自らが皆と同じユニフォームを着て応援する事で、より一体感を感じる為」

①については「球場や競技場で応援するのならば皆と歩調を合わせないとマズイかも知れない」という周りから受ける無言の同調圧力によるものだろう。 

②については見ず知らずの他人と同じユニフォームを着て応援するという事実において、他人との共闘関係を構築する事へのある種の自己陶酔を味わいたいという願望ではないだろうか。

①と②については応援する方の根底にある動機なのだが、そこにもう1つ付け加えるならば、
③「ユニフォームを着て応援する姿勢そのものが球場や競技場全体に醸成される熱狂感をより一層際立たせる為」
という理由があるのではないか?

②と殆ど同じ理由なのだが、その場全体に醸成される熱狂感とも言うべき非現実的空気感の享受こそがファンが何度も球場や競技場に足を運ぶ根本的な理由なのだろうと思う。
その非現実的空気感を享受する為には、観客はより一層の強い一体感を求めようとする。そこにはどうしても統一された服装でなければならない。応援するチームのユニフォームを着るという理由がそこにある。

これはスポーツ観戦(特に野球とサッカー)に限る事で、ユニフォームを着る行為はライブでアーティストの容姿やコミケでキャラクターの容姿を真似る事とは動機が全然違うと思うのだが、現場の熱狂感(非現実的空気感)を享受したいという願望は全てにおいて共通しているのではないだろうか。

熱狂とは「血を沸き立たせ、狂わんばかりに夢中になること」という意味なので、地元のチームを応援したいというのは、あくまで表面的な理由で根底では人は皆、僅かな時間でも現実から逃避して狂いたいのである。

何時だったか、ある年のクリスマスか大晦日に市内のアーケードで見ず知らずの他人同士がお互いに1列になってハイタッチして行く現象がニュースで流されていたが、この不可解な現象も一時的な熱狂感の享受を欲する事だと判断出来る。

「羽目を外す」という言葉もある通り、自らの抱える憤懣のガスを抜く事に置いての一時的に狂うという願望は現実社会をより良く生きる為には必要な事なのだろうが、熱狂感の享受がエスカレートした先に集団制の狂気に繋がるという事も留意しておかなければならないと思う。

最後までお読み頂き有り難うございました。 いつも拙い頭で暗中模索し、徒手空拳で書いています。皆様からのご意見・ご感想を頂けると嬉しいです。