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何もなき時 人の師となれ

はじめましてかっつん(@kattsun4416)です。

いつかこの文章を見返したとき、「このころはまだ俺も未熟だったな。」と思える日が来たらいいなと思ってます。

分け、隔てる

本当の自分は違うんだ。こんなんじゃないんだと思っていました。
本当はもっと明るくてフランクで、冗談も言えるやつなんだって。おどけることだってできる。

でもそのユーモアは親しい相手にしか発揮できませんでした(過去形で書いてますが、現在形です)。何故、この調子で誰に対しても分け隔てなく接せられないのだろう。

そして、控える

僕はとても控えめな性格です。
触らぬ神に祟りなしを地で行く人間で、がつがつ・積極的からは程遠い位置にいます。そういうふるまいがとにかく疲れるのです。思えば、小学校の時からどっちの自分でいこうか意識的に迷っていました。内向的に振るまえば他人から腫物を触るように扱われるけど、楽。外向的に振舞えば他人とそれなりにコミュニケートできるけど、しんどい。

営業でも内向的な性格が響いている気がします。不特定多数の人に対し、自分からアプローチをかけるのがとことん辛い。先日も展示会で、自分から見込み客の出展ブースに立ち寄り、名刺交換をしてくる任を負ったのですが、自分からは声をかけられません。置いてある会社紹介を読み、向こうから話しかけてくるのを待つのみです(何枚か交換はできました。ほっ)。

不快にさせたくないという自己防衛

その展示会では反対に、当社の出展ブースに内装工事の人や展示パネルメーカーの人が営業をかけてきたのですが、上司はお仕着せの態度で応じた後、パンフを「ゴミ。捨てといて。」と僕に命じました。僕はそれと同じことを他社にやっているのではないかと思うと、嫌で仕方ないのです。なぜ自分は営業をやっているのだろうと思ってしまいました。

営業にかぎらないんですよね。音楽をやっていても、例えばライブに出演するとして、自分で自分を宣伝するのがはばかられる。そしてそんな自分を自己嫌悪する。ミュージシャン仲間からは、「なんで宣伝しないの。もったいない。」とよく言われました(「むしろ義務だ」、とも)。

これはおそらく、自分で自分を突き放せていないからなんだろうなと思います。ちんけなプライドに絡め取られ、近視眼的に見て一番ストレスのない行動(つまり自分からは何もしない)を選び取っている。

自分を開く

殺せ殺せ我が身を殺せ 
殺し果てて何もなき時 人の師となれ

いきなりスリリングな言葉を引用しちゃいました。至道無難(しどうむなん)(1603-1676)という僧が説いたこの言葉。自分の心を押し殺すという抑圧とは違い(むしろ真逆かと)、外界に刺される覚悟で自分を開いていけ、それが無我の境地だ、というふうに僕は解釈しています。

そう言えば、この文章を書くという行為も「自分を開く」行為として見ています。文章を投稿するたびに、スキの数に一喜一憂します(スキに関してはnote歴が浅いのもあり、実はそこまでではないです。Twitterのいいねやオンラインコミュニティのスタンプはもっと一喜一憂します)。世間に刺される覚悟ができていないのです。私を捨てられていないのです。

この文章も「自分」という言葉が15回ほど出てきています。とらわれてるなあと感じます。こういうのが人間的と言うのでしょうか。

先日読んだ『猫の妙術』にも面白い箇所があって(後日この本についてはちゃんと紹介したい)、「ほんとうはこの世界に『そこ』も『ここ』も『敵』も『味方』もない。生も死すらもない。それは『私』という器から抜け出していない相対的な世界の見方であって、本来万物は"一"である」という老荘思想の教えが書いてありました。この感覚!分かるようで全く分からないこの感覚!いつか、できれば世界からいなくなる前に体得したい。


最後まで読んでくださってありがとうございます。 とても嬉しいです。また来てください。