きっと忘れてしまうことについて

 小松真弓監督による『もち』という映画があり、確か数年前の公開時にみなとみらいのkino cinema で観た。事前にこの映画について何か知っていたわけではない。にもかかわらず観ようと思ったのは、ポスターにあった「忘れたくない 思い出せない そのあいだに わたしたちはいる」というキャッチコピーに強烈に惹きつけられたからだった。

『もち』宣伝ポスター

 具体的なストーリーは割愛する(詳しくは鑑賞してほしい)が、この映画が描いていたのは、日々の中の何気ないが、それでも大切な瞬間だ。祖母の死や親友の転校、あるいは背景にある東日本大震災といった出来事は決してセンセーショナルな大事件とは描かれず、むしろ何も変わらないようでいて刻々と変わっていく日常の中の一コマとして表現されている。その中で忘却に抗いながらも、それでいてどこかで受け入れる、そのような態度を映画は描き出していたように思う。決して有名な作品ではない。それでもいつまでもたっても心の中に残り続ける、私にとってはそのような作品である。

 自分の中にもいつまでも記憶に残っている瞬間というものはあって、それは大抵些細で、取るにたらないことだ。例えば、もう会うことがない友達と最後に一緒に電車で帰ったとき、後になってその日はやけに眩しい夕焼けが車窓から差し込んでいたな、と気づいたこと。珍しく家族そろって旅行したときに泊まった海の近くの旅館で、なぜか一人で窓の外に広がる夜の海を見ていたこと。遠くに見える波の間には今にも消えてしまいような光が幾つか点滅していて、それが何故か誰がが自分の孤独な存在を世界に放っているのだと思えたこと。あるいは祖父の葬儀の日はひどく暑い日で、蜃気楼がそこら中に立っていたこと。
 数えきれないほどのこうした記憶の前後は奇妙なほどに抜け落ちてしまっている。あのとき自分は誰といて、何を話したのか。そういったことは思い出さなかったうちに、あるいは務めて思い出さないようにしているうちに、遠くに霞み、思い出せなくなってしまった。ただ幾つかのシーンだけがカメラで無作為に切り取ったように記憶に残っている。

 思えば、自分はあまりにもたくさんのことを忘れてしまった気がする。例えばたかだか3年くらい前の高校生活。少し前まで私はあまりにもその記憶に固執していた。だが今ではその多くがどうでもいいように思える。憎かった人間のことも好きだった人間のことももうほとんど思い出さなくなった。その頃は希死念慮というと大げさだが、それに近い死への欲動めいたものを抱えていた。今ではそのような気分になることも少なくなったし、なぜそんな風に思っていたのかも段々と記憶から薄れていく。
 そんな日々の中でも今になってよく思い出すことは、やはりどうしようもなく些細なことがほとんどだ。前にここで書いたように、ある件だけは忘れないように自分に課しているのだが、それもやはり自分さえ忘れてしまったら存在しなくなるも同然の出来事なのだし、そういった意味では些細なことなのだ。
 忘れてしまったことへの名残惜しさはあるが、本質的な意味ではそれらは自分に必要な記憶ではなかったのかもしれない。むしろ今覚えている何でもないようなこそが自分にとって大切で、いつまで経っても失いたくないものなのだ。最近になってそう思えるようになってきた。

母さん。母さんは昔、記憶は選択だと言った。でも、もし母さんが神様なら、記憶は洪水だと知っているだろう。

『地上でぼくらはつかの間きらめく』 オーシャン・ヴオン,木原善彦(訳)

 私は以前まで、この小説の一節について、記憶を選択することはできないのだ、といった意味だと思っていた。しかし最近読み返してみて、それは違うのではないかと思い始めた。
 つまり、記憶とは選択であると同時に洪水でもあるのだ。(そしてそれは忘却に関しても同じだ。)記憶と忘却を完全にコントロールすることはできない。どうしようもなく忘れたいことに限って、いつまでも頭の中から消えないし、どんなに強く覚えておきたいと思ったことでさえ、私たちはいつか忘れてしまう。記憶も忘却も洪水のように私たちを飲み込む。神の視点から見れば、人間はそれを乗り越えることなど不可能なのだ。
 しかし、それでも私たちは洪水の中で生き延びるための選択をすることができる。まるで屋根の上で水が引くのを待ったり、溺れないように何かに掴まったりするように。もちろんそれが完全に成功することはない。それでも私たちは忘れるように、あるいは忘れないように、選択し続けることができるのだ。

 映画『もち』の中でも主人公であるユナが、亡くなった祖母のことをどうやったら忘れないでいられるか、祖父に聞く場面がある。祖父は語り続けることが大切だと説く。もちろん祖父もユナも、完璧なままに祖母の記憶を保ち続けることはできないと知っている。いつか祖母のことを忘れてしまい、語ることもできなくなる日が必ずやってくるだろう。それでも二人は抵抗のための選択を行うのである。

 自分が留めておこうとしている幾つかの些細な、取るに足らないような記憶もいつか思い出せなくなる日が来るだろう。それでもこのような文章を書いているのも、やはり記憶と忘却の洪水のあいだで、勝算のない抵抗を行うためであるのかもしれない。


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