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休まず泳ぐ真っ黒太っちょ - 週刊カツオ #15

春先の寒い日から、秋の気配が顔を出す頃まで。
水泳部で真っ黒に日焼けした太っちょ。
それが私、カツオの中学生時代でした。

小学生の頃にスイミングクラブには通っていたけれど、コーチと合わずに辞めてしまいました。
昭和の当時、少し指示を聞き洩らすと平手打ちが当たり前でしたので、そのような指導には辟易していました。
しかし、クロールがせいぜい泳げるようになったくらいで、その他の泳法は全然泳げないのが心残りでした。
そして、中学入学と共に、真っ黒太っちょへの道が始まります。

中学1年 カツオ、水泳部に入る

中学1年になり、仲の良い友達がみんな水泳部に入るということもあって、水泳部に入りました。
せっかくなので、私も自分の中で止まっている、水泳の中途半端さを払拭できればという思いもありました。

しかし、あまり調べずに入部した私がアホでした。
「入る部活を間違えた・・・」というのが第一印象です。

入部してから知ったのですが、私の通う中学校の水泳部は、公立中学校にも関わらずジュニアオリンピックに出場する選手が所属するなど、当時、市内でも強豪校の一校に数えられていたのでした。
練習が厳しいことで有名な、名物顧問のY先生の指導のおかげでもありました。

そして、運動神経が鈍く、太っちょだった私は、走るのに加えて、泳ぐのも遅かったのです。
(じゃあ、なぜ水泳部に入ったのか?という疑問が未だに湧いてくるほど、遅かったのです)

仲の良い友達はみんな泳ぐのが速く、私は水泳部の同期の中でほぼビリのタイムでした。
部内ではいくつかのグループに分けられますが、最も遅いグループになりました。
どのくらい差があったかというと、自由形100mで友達がゴールした時に、私はあと25m残っているくらいの大差でした。

当然、扱いは「補欠」。
能力のない補欠選手は、部内での肩身はせまいものです。
全員出場できる新人戦を除き、記録会でも選手に選ばれることなどはありませんでした。
とうてい戦えるタイムではなかったのです。

では、ここから奮起して、中学校3年間で奇跡の成長を遂げる・・・
というストーリーだとカッコいいのですが、残念ながらカツオ少年のタイムは、それほど速くはなりませんでした。

夏休みは朝9時から夜19時まで、毎日8000m~10000mのメニューが課せられていました。
練習は真剣に取り組むのですが、どうしても十分にメニューがこなせないくらい、私は遅かったのです。

自分では一所懸命にやっているのですが、どうもうまくタイムが伸びない。
しかし、練習以外に何かプラスアルファの努力をしたのか、というと、そこまでやる気はないという、今思えば呑気な少年でした。

練習した成果が感じられないと、モチベーションも下がります。
タイムの遅い私のグループは、ボウフラや藻が浮く端の方のコースで泳ぐことになっていたので、それも辛いことの一つでした。

でも一番つらかったのは、厳しい名物顧問のY先生から、私たち遅いグループのメンバーに対して、
「お前ら、しっかり練習せんとクビにするぞ」
と日々言われたことでした。

いま思えば、叱咤激励なのは理解できますが、当時は「いやいや、これ以上どう頑張ったらいいんすか」と内心反論していました。
あまりに頻繁に言われるので、行くのが嫌になった時期もありました。

しかし、辞めずに済んだのは仲の良い友達と、さらに水泳部で出会った仲間、先輩でした。
タイムは上がらなかったものの、みんなが練習の合間にアドバイスしてくれたおかげで、小学校の時に中途半端になっていた、背泳、平泳ぎ、バタフライが泳げるようになったのです。

水泳部に入って良かったことではありましたが、やはり厳しい練習と厳しい顧問には正直しんどいと思っていました。


中学2年 カツオ、クビ寸前

2年生になると、後輩が入ってきます。
当然ながら、私よりスリムで、タイムの良い後輩たちがわんさか入ってきます。
1か月もすると、後輩たちも部内の関係性がわかってきます。

彼らよりもタイムが遅い私たちグループは、先輩と言えども、実力では後輩が上です。
敬語はかろうじて使ってきますが、敬意は感じられないという状況でした。

実力の世界なので当たり前ですが、立場の逆転ということを身に染みて感じたのでした。

さらに、中2の夏に中耳炎を発症してしまい、「2週間は泳いではいけない」とドクターストップがかかってしまいました。
名物顧問のY先生に事情を話に行くと「もうクビにするぞ」と最後通告が。
ここまで続けて辞めると、友達も失うし、中途半端になってしまう。
絶対後悔する気がしたので「治ったら頑張りますので、続けさせてください」と頭を下げてお願いしました。
Y先生は苦い顔をしていましたが、他の副顧問の先生の働きかけもあり、何とか在籍を継続することができました。


中学3年 カツオ、休まず泳ぐ

3年生、とうとうラストイヤーになりました。
そろそろ、友達と高校受験の話が出始め、水泳部の活動にも少し変化が出てきました。

水泳部の同期は、水泳も早いですが成績の良いヤツも多かったので、受験勉強も熱心でした。
当時からあった「五ツ木の模擬試験」が日曜日に行われるので、日曜日の部活を休む人が増えてきました。
さすがにY先生も教員の一人なので、受験生に日曜日にも練習に絶対来い、とは言いませんでした。

水泳部に限らず、多くの運動部は夏の大会で中学3年生が引退します。
4月下旬から泳ぎ始め(温水では無いのでほぼ寒中水泳)、8月までの4か月間が残された活動期間になります。
思った以上にあっという間に引退だ、と当時は感じました。

4月末頃でしょうか、Y先生がミーティングで「日曜日は人が少ない」とつぶやいた一言が耳に残りました。

幸いなことに、私は4月に志望校のB判定が出ていました。
学校で年6回くらい実施される実力テストと定期テストの成績が、学校の進路指導の判断材料でした。
模擬試験は必須じゃないということもあり、4月の時点で決めるのは早計かもしれませんが、その日以降、1回も休まずに部活を全うすることに決めました。

タイムが遅かろうがなんだろうが、とにかく泳ごう、と。
クビを宣告された私だけど、日曜日に行けば、多少の賑やかしにはなるんじゃないか。
カッコつけて言えば、後輩たちにも3年生の背中は見せられるんじゃないかという風に思ったのです。

それから、5月からは、模擬試験で多くの同期が来ない中、平日はもちろん、土曜日も日曜日も1日中泳ぎ続けました。
その間も受験勉強は何とか平行線を保ち、7月の三者面談(クラス担任と親と私)でも、何とか志望校を替えずに済みました。

すると、6月に入ったころから、とうとうY先生が私を名前で呼んでくれるようになりました。
そうです。中3になるまで、万年補欠の私は、「おい」「ちょっと」など、名前で呼ばれたことがなかったのです。

そして、7月のある日曜日のこと。
人数の少ないミーティングの最後に、私と後輩たちに向けてY先生は言いました。
「○○(カツオの本名)は信頼できる。お前らも見習え。練習を続けることが大事だ。以上」

・・・・・!
ああああああああ!
あの名物スパルタ顧問のY先生が!
「クビだ」と言っていた私を!
「信頼できる!」と言った!!!

キツかった3年間の水泳部生活が、この一言で報われたのでした。
この日のことは、30年経った今も忘れません。

その話を後輩から聞いた同期も「良かったなぁ」と自分のことのように喜んでくれました。
結局、中学3年間で水泳部の選手としては全く役に立ちませんでしたが、3年生としての背中を見せるということはできたのかなと思います。

そして、引退。

中学3年の夏の終わり。泳ぎまくりの夏でした。
結局「真っ黒に日焼けした太っちょ」のままでしたが、心身ともに少し引き締まった中学3年間でした。

継続は力なり

という格言を心の底から信じられたのは、Y先生のあの日の言葉のおかげです。
水泳というスポーツがくれた、今も私の中に息づく大切な思いです。

速く泳げる方が良いけれど、
速く泳ぐだけが全てではない。

今回もお読みいただき、ありがとうございました。

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