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成功は運か努力か才能か?についての考察

「人生は運ゲーに過ぎないのか?」「運ゲーだとしたら攻略法はあるのか?」というテーマをここ数年ずっと考えていて、自分なりに納得できたので備忘録として書き残しておこうと思う。

今の時代に「努力は報われる」といった話を素直に信じることはできないのは明白だが、分不相応な夢は描かないほうが良いという雰囲気もある。

そこで、昔から続く「成功は運か努力か才能か?」という疑問に対する考えをまとめてみることにした。

才能ではなく運が支配する世界

2022年のイグノーベル経済学賞に非常に面白い研究が選ばれていた。イグノーベル賞とは「ノーベル賞のパロディ」みたいなものだが、「くだらない」と片付けてしまうのはもったいない。

「社会的な成功において重要なのは「才能」よりも「運」であることの数学的な証明」という内容だ。一般的には「成功する人は才能のある人」という社会通念を私たちは共有しているが、この論文では「才能」よりも「運」のほうが大事という結論を導いている。

もちろん、世界を単純なモデルに置き換えてシミュレーションしているため、現実もこの通りになるとは言えない。ただ、この研究において面白いところは、私たちが暮らす現実社会を「才能が支配する”正規分布”の世界」と「運が支配する”べき乗則”の世界」の重ね合わせとして捉えている点だ。

「正規分布(normal distribution)」とは自然界ではもっともありふれた確率分布で、なだらかな山のような分布のことを指す。自然界や人間についての統計を調べていくと多くが下図のような分布になる。身長・体重・身体能力・知能などの統計を調べると大半の人が中央付近に分布される。

正規分布の世界(スペック)

一方で、「べき乗則(power law)」は、上位数パーセントの存在に多くの資源が偏る世界で、グラフで表すと崖のような形になる(ロングテールとも言われる)。このような偏った世界では異常なことこそ日常だ。私たちが暮らす経済はこのべき乗則が支配する世界だ。例えば、世界の上位8人が保有する個人資産(50兆円以上)は、人類の半分にあたる下位36億人が保有する資産と同額になる。ソシャゲも上位5%のプレイヤーが売上の90%を叩き出すような現象が起きる。

べき乗則の世界(経済) by Wikipedia

個人の才能(スペック)の多くは「正規分布」だ。一方で、経済的な成功は、何らかのきっかけでチャンスを掴んだ少数の人間がほとんどの成果をかっさらう「べき乗則」の世界だ。

そのため「才能があること」よりも「たまたまの幸運を引き当てること」のほうがはるかに重要になる。そして世の中で最も数が多いのは正規分布の中央付近に位置する人であるため、「幸運な人」もこの平均的な人から選ばれることが多くなる。

ちょっとしたきっかけをつかめれば良いので、「少しの才能」と「運」が成功の条件となる。

これは個人的な感覚とも一致する。能力の高い人が必ずしも成功しているわけではない。反対に、成功している経営者や投資家が一般の人と比べてスペックが優れているかと問われれば、せいぜい1.5倍から2倍ほどの差でしかないように感じる。とても数千倍の資産の差を正当化するほどではない。

成功とは「環境が作り出す現象」の一種

私たちは成功というのが個人が努力によって勝ち得るものであるかのように刷り込まれているが、その認識は誤っている可能性が高い。
むしろ、成功とは「環境が作り出す現象」と捉えたほうがしっくりくる。つまり雷や雪や竜巻のように、様々な要因が絡み合って発生する「自然現象」のように捉えたほうが良い。

成功とは雷のような現象に近い

タイミング・チーム・時代・場所など一つでも条件が違えば結果は違ったものになるだろうし、同じ結果を再現することもできないだろう。

人々を苦しめている問題の根っこは、環境が作り出す成功という「現象」が、個人の能力を示す「成果物」のように扱われてしまうことにあるように思う。

個人に紐づくことで起こる誤解

オーケストラでは、真ん中にいる「指揮者」は確かに目立つが、最後列の演奏者も誰一人として欠けては成り立たない共同作業だ。

オーケストラは指揮者に注目が集まる

しかし成功は仮にそれが現象であったとしても特定の個人に紐づけて語られる。本やテレビや雑誌でその成功を取り上げる場合でも、誰かにスポットライトを当てなければならない必然的に最も影響力のある人物が意図せずとも「手柄」を総取りすることになる。

その情報が広く流通していくうちに、その人物が神格化されてカリスマとして扱われていく。そうなるとタイミングやチームなどの要素はまるでなかったことのように扱われてしまう。これによって、成功を「環境による現象」ではなく「個人の成果物」と捉える価値観が強化されてしまう。

成功は「独自性」と「タダ乗り」の掛け算

ここまで成功は運の占める要素が大きいという話をしてきたが、では「才能」や「努力」との関係まで掘り下げて考える必要がある。「成功には運も努力も才能も必要」と言うのは「ラーメンには麺もスープもメンマも必要」と言うのと同じぐらい何も言ってないに等しい。

本当に知りたいのは手順のほうなのだ。

そのためには、規格外の成功を分解すると、どんな「要素」で成り立っていて、どこまでが「才能」で、どこまでが「努力」で、どこからが「運」の領域になるかを、切り分けて考える必要がある。

途方もないように見える成功も、実際は分解していくとシンプルな「要素」で成り立っていて、そこに至るまでの手順にも多くの共通点がある。

個人的に複数の仮説を同時に試してみて成功したものと失敗したものの要因を分析してみたり、世の中の事例を片っ端から知り得る範囲で調べてきた。

途方のないように見える成功は「独自性(ユニークネス)」と「タダ乗り(フリーライド)」という二つの要素の掛け算から発生する現象だと捉えてみるとしっくりくる。

規格外の成功はこの二つが噛み合った時に起きてる

初期の「独自性(ユニークネス)」では個人やチームの努力や才能が重要になる一方で、後半の「タダ乗り(フリーライド)」では個人のコントロールを超えた純粋な「運」の領域となっていく。

そして成果の大半は後半のステージで発生しているため、成功には「運」の要素が強いという話とも特に矛盾はしていなかった。

ざっくり言えば下記のような手順で規格外の成功は発生してる。

  1. 故意または偶然に「独自性」が発生する(ユニークネス)

  2. 環境に「タダ乗り」することで急拡大する(フリーライド)

ユニークネスは「才能と努力」、フリーライドは「運」が重要になる。それぞれ解説していく。

ネタ切れが起きない「独自性」

独自性(ユニークネス)とは、言葉の通り「他に類を見ない性質」のことを指す。ビジネスでは、コアコンピタンス・差別化要因・競争優位性・新規性・付加価値とか色んな呼び名で呼ばれるが、だいたい同じだ。つまり「人を惹きつける魅力の源泉」となるアイディア・製品・コンテンツ・キャラクターの総称である。

「もう世の中にアイディアなんて出し尽くしているんだから、今の時代に独自性のあるものなんて作れはしない」と嘆く人もいるかもしれない。
ただ、ここで言う独自性とは世界初である必要は全くない。現在の人々がスタンダートだと認識している枠組みから少しズレたものであれば独自性は発生し得る。それが過去に存在していたものであっても、時代や場所が変われば新しく感じられるし、何かと掛け合わせれば新しいものとして捉えてくれる。

つまり、独自性は、その時代の人々が慣れ親しんだ概念を少しだけズラすことで無限に作り出すことができる。人々の標準が時代によってずれていけば、使い古されたものでも新しいものとして再登場することも起きる。

標準から少しズレるだけで独自性は発生する

例えば、中高年にとってはインスタントカメラ(写ルンです等)はスマホの登場あたりで必要なくなった過去の製品だが、現代のスマホに慣れ親しんだ10代にとっては一周回って新鮮なものとして受けてる。ファッションや音楽も、20年前に流行ったものが現代風にカスタマイズされてリバイバルすることも多い。

アイディアは生まれ続けるが、その時代の人々が共有する「常識」は無限に拡張されたりはせず、常にその範囲は有限だ。そのため、アイディアにネタ切れはあっても、独自性は常に新しく発生し続けるという不思議なことが起きる。

言い換えれば、独自性(ユニークネス)とは、その時代の人々がなんとなく共有している認識を見抜いた上で、その「常識」と「非常識」のちょうど境界線上にアイディアを置くという行為とも言える。常識的すぎるとつまらないし、非常識すぎると受け入れられない。ちょうど良い塩梅が求められる。

そして、アイディア同士を組み合わせたり、特定のグループに限定したり、形を変えたり、場所を変えたり、過去のものを復活させてみたりと、独自性の発揮させる手法も無数にある。

例えば、大ヒットした映画『君の名は。』は懐かしいような目新しいような不思議な感覚になった人は多いと思う。「体が入れ替わる」「タイムリープする」と言った作品は過去にもそれぞれあったが「二つ同時に組み合わせる」となるとユニークになる。さらに、光景や色彩や音楽の美しさなど従来とは別の側面を押し出すことで「見たことあるようで無いような作品」を作り出してる。子供にはもちろん新しいものだし、大人も懐かしさと目新しさを感じられる。多層的な作りになってる。

独自性を発見するというフェーズにおいては、努力や才能の比重が高くなる。ただ、才能があって、どれだけ努力しても、世の中に受け入れられるほど「ちょうどよいぐらいの斬新さ」がないと独自性は発生しない。逆に素人のぱっとした思いつきが、たまたま時代にハマって独自性を発揮することもある。

独自性を作る(その時代の常識と非常識のちょうど境界線上にアイディアを置く)過程では、才能と努力と少しの運が求められる。

規格外のスケールを叩き出す「タダ乗り」

問題はここからだ。成功に最も重要な要素は運と言われる理由が、このタダ乗り(フリーライド)というプロセスに隠されている。成果の大半はこのプロセスで発生し、本人のコントロールを離れて途方もない成果をもたらすことが多々ある。

既に走ってる誰かのバイクに乗せてもらう

「タダ乗り(フリーライド)」という言葉を聞くと悪いイメージを連想するが、ここでは「既に存在している基盤を限界まで活用する姿勢」という中立的な意味で使っている。

もしうまく独自性を発揮することができたとしても、それだけでは大した成果は発生しない。もし規格外の成果を出したければ「べき乗則」が支配する世界に身を移す必要がある。べき乗則が支配する世界では、人気者はさらに人気者になり続けるというループが無限に発生する。結果的に指数関数的な成果が短期的に舞い込む。

そのために必要になるのが、「既に存在している基盤に乗っかる」ことだ。基盤というとわかりにくいが、プラットフォームでもサービスでもソフトウェアでもコンセプトでもイデオロギーでも何でも良い。

現代で最もわかりやすいのが「SNS」だ。YouTubeやInstagramなど、一瞬で世界何十億人まで自分の活動を知ってもらうチャンスがある。投稿や動画がバズった経験がある人ならわかると思うが、自分ではほんの些細なことを投稿しただけなのに、結果的に何十万人や何百万人に認識されるというのが日常的に起きる。

そして拡散されればその結果を個人がコントロールすることはできなくなる。話題が話題を呼び、人気が人気を呼ぶ。バタフライ効果(蝶々が羽ばたくと竜巻が起きるといった例え話)のようなもので、地球の裏側の人にまで届いてしまうかもしれないし、自分が大好きなスターにも話題として取り上げてもらえるかもしれない。

ここで重要なのは、独自性を発揮する行為だけに集中して、それ以外は既に世の中に存在しているものをフル活用する姿勢だ。

例えば、もし現在人気のトップYouTuberたちが、YouTubeというプラットフォームに乗っからず自前で動画配信サービスを作って配信しようと試みたとしたら、今ほど成功していただろうか。確率は極めて低い。仮に独自の素晴らしいコンテンツを作れたとしても、動画配信サービスをゼロから開発しなければならず、視聴者の増加に合わせてサーバーを増設し延々とコストを負担し続けないといけない。

ユーチューバーはYouTubeにタダ乗りすることによって成功し、逆にYouTubeはユーチューバーたちに面白いコンテンツを供給してもらうことで成長したという相互依存の関係にある。

また、プラットフォーム以外でもフリーライド戦略は効果的だ。例えば「婚活」のような言葉が市民権を得た後、「腸活」「推し活」「脳活」のような言葉を作っても、私たちはすぐに意味が想像できる。これは「〇〇活」というフレーズにタダ乗りすることで、ゼロからコンセプトを多くの人に理解させる手間とコストを省くことができる。

独自性(ユニークネス)も時代によって変化し続けるが、同様にタダ乗り(フリーライド)すべき基盤も時代によって変化し続ける。どこまで「独自性」を発揮して、どこから「タダ乗り」するのか、という判断が極めて重要になる。

多くの成功はこの「独自性」と「タダ乗り」の掛け算によって起きるが、状況によってこの二つのバランスも変わる。高い独自性を実現できている場合は、タダ乗りする基盤が弱くても何とかなる。一方で、独自性が低くても、フリーライドする基盤が急成長している場合には、その波にのって規格外の成功を実現し得る(初期のYouTuberがまさにこれ)。

ちなみにタダ乗り戦略以外でも大成功するケースはあるが、何千億円の赤字に耐えて投資を続ける戦略(Amazon・SpaceX・PayPay等)や、セレブリティを巻き込む戦略(Instagram・TikTok等)など、一部の限られた人だけが取れる戦略なので多くの人にとってそこまで参考にはならないと思う。

タダ乗りされる側になると盤石になる

タダ乗り(フリーライド)すると聞くと寄生虫のようなネガティブなイメージを持ってしまいがちだが、逆にタダ乗り(フリーライド)される側になることによって地位が盤石になることも多い。

例えばビットコインはソースコードが公開されてるので、第三者がカスタマイズしてオリジナルの暗号通貨を作ることができるようになり、イーサリアム等のさまざまなアルトコインが生まれた。これによってビットコインは逆に暗号通貨市場における基軸通貨のような存在となり、その地位は盤石となった。

ビットコインのタダ乗りされることでインフラ化してる

格闘家の朝倉未来さんはYouTubeを活用して有名になったが、最近は「Breaking Down」という企画を通して他の人が有名になるチャンスを与えることでさらに成功している。言い換えれば朝倉未来さんは「YouTube」にフリーライドすることで成功して「Breaking Down」で他人からフリーライドされる側になることで、その成功をさらに盤石なものにした、と言える。

タダ乗りされる対象になると「インフラ」のような存在に近づいていくため、結果的に支配力が強まることが多い。独自性を作り出して何かにタダ乗りし、次にタダ乗りされる対象になることで成功が盤石になっていく。

「求心力」と「遠心力」を同時に発揮する難しさ

こうやって整理すると簡単にできそうに思えてくる。ただ、実際はかなり難しい。言うは易く行なうは難しだ。なぜなら、一見すると真逆のスタイルを同時に実行することが求められるからだ。

独自性(ユニークネス)を作り出すためには、世の中をじっくり観察する必要がある。その上で自分なりの仮説を立てて腰を落ち着けて創造に向き合わないといけない。極めて職人的な活動だ独自性を発揮するとは、自分(もしくは自分の作品)にあらゆるものを惹きつける「求心力」を発生させる行為になる。

一方で、タダ乗り(フリーライド)とは外部環境をフル活用する姿勢だ。いかに自分の労力を使わずに他人の力を借りられるかの視点が重要になる。他力を活用して外に広げていく「遠心力」のようなものが求められる。他人の力を活用すればスケールできるが、代わりに全て自分でコントロールしようとする姿勢は捨てないといけない。「手放すこと」が重要になる。

中心に引きつける「求心力」と、外に広げていく「遠心力」という相反する力を同時に発生させないといけない。これは思った以上に難しい。

求心力を発揮させることに思考が偏り過ぎてしまうと、0から100まで全てこだわり抜こうとしてしまう(頑固者の職人のように)。そのため、自分が得意でもない領域にまで手を出してしまい競争に巻き込まれてしまったり、外部環境の力を活用しようとせずに小さくまとまってしまうということが起きる。
素晴らしい作品を作ってるのになかなか評価されないアーティストをイメージしてもらうとわかりやすい。ひょっとすると彼は「SNSなんて邪道だ」と言って活用していないかもしれない。

一方で、遠心力を発揮させることに思考が偏り過ぎてしまうと、わざわざ独自性を作ろうとするのは「コスパが悪い」行為に思えてくる。安く仕入れて高く売るアービトラージに徹したほうが効率的に思えてくるし、世の中で流行ってるものをコピーしたほうが合理的に思えてくる。転売屋や投機家をイメージするとわかりやすい。ただ、自由市場では情報格差はすぐ消えるので、新しいチャンスを求めてさまよい続ける羽目になる。そうなると、かえってスケールが難しくなる。

例えるなら、クリエイターのように創造的でありながらも、トレーダーのように合理的であるようなものだ。真逆のスタイルを二重人格のように使い分けて組み合わせる器用さが求められる。

職人のように創造して投機家のように行動するようなもの

つまり、独自性を発揮できる領域に関しては徹底的にこだわるが、それ以外は徹底的に手抜きして楽をしようとする姿勢が求められる。この思考の切り替えがなかなか難しい。

後付けでも成り立つ「物語」

独自性(ユニークネス)とタダ乗り(フリーライド)の掛け算によって本人たちも想定外な規模の成果が発生すると、そこには物語性(ストーリー)が付け加えらえることが多い。確かに成功秘話や開発ストーリーや偉人の自伝は読み物として面白い。

人間は情報を流通させるために物語を勝手に作り出してしまう癖がある。なぜなら、そのほうが効率が良いからだ。人々は論理(ロジック)より物語(ストーリー)を好む。メディアは誰も読まない記事を書くことはできないし、出版社は売れない本を出すことはできない。この過程で、尾ヒレがついたり装飾がなされていき、人々が消費できるストーリー性を帯びていく。

人間はストーリーを欲しがる

物語(ストーリー)が生まれれば、それが「ブランド」に変わる。ブランドが確立すれば、次回の挑戦の時に下駄を履かせてもらえる。前回うまくいった人物・企業・製品ならば、次回もきっとうまくいくだろうという期待をもってもらえる。噂が噂を呼び、実績が実績を呼ぶ。つまり、ブランドが独自性を強化してくれる。

結果的に、一度うまくいったら次もうまくいきやすくなる好循環に入るので、指数関数的な成功を収めていく(まさに確変モード)。

このループが世界規模で起き続けると、何百兆円の時価総額の企業や、何兆円の資産を持つ個人や、何千万人のフォロワーを持つインフルエンサーなど、特殊な存在が自然に発生する。

天才を打ち負かす凡才の存在

この世界では「天才を打ち負かす凡才」は実は全く珍しくない。素晴らしい才能があるのに全く評価されてない人や、逆にそこまで優れているわけではないが大成功している人をみて不思議に思ったことはないだろうか。

もちろんそれは、①「優れた才能」がある事と、②それが世の中で「独自性」を発揮できること、③何かにタダ乗りして「運」を味方につけることは、それぞれ全く別のことだからだ。これらを積極的に繋げる努力をしなければ宝の持ち腐れになってしまう。

優れた才能があっても、それを独自性に変換する努力は必要だし、その独自性を世の中に広めるための適切な舞台に上がらないといけない。

しかも、運が支配する世界では才能が豊かな人ほど不利に働くという不思議な現象も起きる。

才能が豊かな人は競争に巻き込まれやすい。高い目標を掲げて、強力なライバルと競うことも厭わない。なぜなら勝利する「自信」があるからだ。結果的に強者の中に埋もれてしまって独自性を発揮できないで終わるということも多い。

一方で、自分が天才ではないと自覚している人は、徹底的に強者との競争を避ける努力をする。自分のわずかな強みを冷静に分析して、その強みを全力で活かせる「環境」を探す。そして既に存在する基盤をフル活用することも躊躇しない。フリーライド戦略にも自然と辿り着きやすい。

つまり、「優れた才能」が足枷となり、競争に巻き込まれて「独自性」を発揮できなかったり、「タダ乗り」せずに自力で突破しようとして「運」を味方にできないといった戦略ミスを犯しやすい。

また誰しもが「自分が面白いと思うものはみんなも面白いと思うはず」という認識をうっすら持っているが、特殊な才能をもってる人は周りと感性がズレてる場合も多いので人々の理解をはみ出てしまうこともある。かえって独自性を発揮するのに苦労してしまう。

白亜紀に生息したティラノサウスには天敵はいなかったと思われるが、その後の厳しい氷河期を生き抜いたのは環境に適応した小さなネズミやゴキブリのほうだった。圧倒的な才能は、環境に適応するためにプラスに働くとは限らない(むしろ邪魔になることもある)。

運が支配する世界では「才能を頼りとする者」よりも「環境を味方につける者」のほうが有利だ。「他人より少しだけ優れた特徴」があればそれで十分なのだ。

戦えるほど「ニッチ」まで絞り込む

独自性を発揮するために手っ取り早い方法は自分が独自性を発揮できるほど「ニッチ」まで領域を絞り込むことだ。「ニッチ」とは「隙間」という意味だが、ここでは「強者と競わなくて良いぐらい十分に小さいフィールド」のことだ。

自然界では全ての生物がニッチに最適化して棲み分けしてる

よくコンサルが「市場規模やターゲットの大きさが重要」と話すが、間に受けてはいけない。今は圧倒的な強者であった存在も、かつてはほぼ例外なく「ニッチ」から始めている。時代の波に乗った結果として強者になっただけで、彼らも最初はニッチを選ばざるを得なかった。

例えばマイクロソフトは創業期はハードウェアを作る体力がなかったので、ソフトウェアに特化していたことで今の帝国を作れた。ビルゲイツが最初から資金に余裕があってハードウェアを作ろうと頑張ったら、今のマイクロソフトは存在していないだろう。
ヒカキンが地上波でダウンタウンのような存在を目指して芸能事務所に入所して修行していたら、今のような成功はなかったように思う。当時のYouTubeはテレビに対して「ニッチ」であり、それが良かったのだ。

無数のニッチが成り立つデジタル空間

ニッチと聞くと小さい隙間でせこせこと非効率な活動をしている印象を持たれがちだが、物理的な制約がないネット空間において事情は変わってくる

空間的な制限がある現実世界ではニッチはどうしても非効率になりがちだ。対象が少ないような商品を店頭の目立つところには置けない。多くの人が手に取ってくれそうな商品に戸棚を割いてあげるのが重要になる。また雑誌やテレビのように「枠」が決まっている場合も、多くの人が受け入れてくれるコンテンツにしか紙面や尺を割けなかった。

しかし、時間と空間の制約がないデジタル空間では、どれだけニッチなコンテンツだって構わない。ニッチであっても世界中から寄せ集めれば巨大な市場規模になる。維持するコストも圧倒的に安い。

物理空間では採算が合わなかったニッチもデジタル空間では十分に成り立つので、わかりにくい強みを持つ人も活躍できるようになってきてる。

「好き」と「得意」を軸にニッチを探す

一部の超人を除けば、誰もが戦略的にニッチを探す必要がある。才能(スペック)では上には上がいるからだ。では自分なりのニッチをどんな軸で探せば良いだろうか。

おすすめは「好き」と「得意」の二つが重なってる領域に狙いを定めることだ。「周りから褒められるけど自分では楽にこなせること」を注意深く観察していくと、自分の個性が見えてくる。それを続けることが全く苦痛でないならば、好きと得意が重なっている領域と考えて良い。

好きと得意が分かれば、あとは試行錯誤を繰り返しながら、自分が十分に戦えるほどの「ニッチ」を探していく。「好きなこと」「得意なこと」「需要があること」の全てが重なってる領域を見つけられれば当たりだが、順番は間違えないほうが良い。

「好き・得意・需要」の有名な「ベン図」

「好きなこと」は自分と向き合うことで、「得意なこと」は周りとの関係性からある程度わかってくる。しかし「需要があること」は社会・経済・競合との関係で決まる。つまり「好き→得意→需要」の順番で関係する人物が増えていき、より複雑になっていく。

仮に自分では需要があると思い込んでいても、そこに自分よりはるかに優れた競争相手がいればアウトだ。自分が認識していないだけでそこに参入しようと準備している人が大勢いるかもしれない。

また需要なんて全くないと思っていたことも世の中が変われば一気に需要が出るかもしれない。三つの中で「需要があること」は不確実性が高くて「当たり」をつけるのが極めて難しいのだ。

「好きなこと」はすぐに変わらないし、「得意なこと」もそこまでは変わらないが、世の中の「需要があること」だけはコロコロ変わる。なので、「好きなこと」と「得意なこと」に当たりをつけたあとに「需要があること」を探すといった順番が良いだろう。

逆に好きでも得意でもないのに需要があることを見つけたところで、そこで継続的に努力し続けるのはなかなか難しい。心から楽しんでやってる人と、歯を食いしばってやってる人では結果に差はついてしまう。

また、好きでも得意でもないことを「需要がある」という理由でやってみて、結果的にうまくいかなかった場合の人生はとても悲惨だ。好きで得意であれば、その過程そのものを趣味として楽しめる。すぐに結果が出なくてもやり続けることができる。他の人より長く続けられればうまくいく確率も上がる。

もし、好きで得意なことをやっていても全然うまく行かない場合は競争のフィールドが「広すぎる」のが原因かもしれない。そんな時は独自性が発揮できるまでフィールドを狭めたほうが良い。

歌うのが好きで得意ならば、プロデビューができなくても落ち込むことはない。YouTubeで歌ってみるのも良い。それでも埋もれてしまうならジャンルを絞り込んだり、フォーマットを変えたり、カバーに徹したり、特殊な映像と組み合わせたり、Vtuberになってみたり、独自のポジションが取れるまで組み合わせ続ければ良い。

二つでダメなら三つ組み合わせて、三つでだめなら四つ組み合わせる。「ちょうど良いサイズのニッチ」が見つかるまで絞り込めば良い。

最初のフィールドが「小さすぎること」を心配する必要は全くない。ある領域で独自性を発揮できれば、そこを足場にして広げていくことができる。

努力と試行における3つの方向性

では、このような「少しの才能」と「運」が支配する世界では、私たちは日々どういった方向性で「努力」をしていけば良いのだろうか。
①己を知り、②没頭して、③変化し続ける、という三つの軸で努力と試行を繰り返すのが良い
と個人的には思っている。

①配られたカードを知る

まず自分がどんなことに興味があり、どんなことに快楽を感じ、どんなことに苦痛を感じるかを知らないと何も始まらない。人格や脳には生まれつき相当な個体差があって、物事の感じ方は人によって全然違う。

他人との交流に喜びを見出す人に一人でパソコン作業をやらせても何の力も発揮できないし、独りでクリエイティブな活動に没頭するのが好きな人に訪問販売の営業をやらせれば鬱病になってしまう。

人間は、環境が変化しても種が全滅しないように、個人が多様性を持つように設計されている。戦争が絶えない時代には攻撃的な人のほうが活躍できるし、ルネッサンスのような時代には創造的な人が活躍できる。多様性のない種は環境の変化に弱い。その対策として、私たち人間はこれほどまでに多様性を持って生まれてくる。

しかし、自分がどんな個性をもっているかは試行錯誤を繰り返さないと見えてはこない。ちょうど頭の上にトランプのカードを掲げて生きてるようなものだ。他人に配られたカードはよく見えるけど自分に配られたカードは自分からは見えない。他人との交わりや社会との関わりの中でようやく「自分に配られたカードはおそらく〇〇だろう」と当たりがつけられるようになる。

わかりやすい強み(頭が良い・顔が良い・話がうまい)が見つからなくても落ち込む必要はない。他人と自分の違いが分かれば、戦略は立てられる。

他人に配られたカードはよく見えるが自分のカードは自分では見れない

繰り返しになるが、自分に配られたカードを知るためには「自分では特に頑張ったつもりはないけど、周りからよく褒められること」を見つけるのが近道だ。どんな些細なことでも良い。褒められるところまで行かなくても、苦痛なく続けられることでも良い。世の中で独自性を発揮するためには、まず己を正確に知る努力が極めて重要になる。

②活動に没頭する

子供の頃、ジャングルジムで夢中になって遊んだり、寝食を忘れて絵を描いたりした経験は誰でもあるだろう。大人になっても無我夢中で何かに没頭した日は妙に充実感があったりする。子供は没頭することは「快楽」であることを知っている。大人になると思考することに忙しくなりそれが思い出せなくなってしまう。

脳は目の前のことに無我夢中で没頭することで充実感が得られるように設計されている。脳には「デフォルトモードネットワーク」という領域があり、ここがずっと覚醒していると何かを考えることに忙しくなってしまう。思考のループから抜け出せなくなってしまう。この領域を休ませずに覚醒させ続けると鬱病などの精神疾患を発症する。筋トレを休みなく続ければ筋肉がおかしくなってしまうのと同じ原理だ。

没頭は快楽であり脳の休憩でもある

今流行りの「瞑想」や「サウナ」も実はこのデフォルトモードネットワークの活動を低下させることで、脳をリフレッシュさせる活動の一種だ。

そして、目の前の何かに強烈に「没頭」している時もこのデフォルトモードネットワークの活動は低下する。スポーツしてる時やゲームをしてる時に「生きる意味とは?」なんてことを悩んだりする余裕は生まれない。

なので、なかなか成果につながらず「失敗したらどうしよう」「笑われたらどうしよう」といった不安に押しつぶされそうな時は、目の前のことにところん没頭する癖をつけると良い。没頭することで、逆に脳を休めることができ、充実感も得られる。周りの声も気にならなくなり、成果も出やすい。まさに一石二鳥ではなく三鳥も四鳥にもなる。

没頭する癖を身につけることで、なかなか成果が出ない苦しい時期もいつのまにか乗り越えることができるようになる。

③柔軟に変化する

人間は未来を想像する時、現在をそのまま引っ張った先に未来が存在すると考えがちだ。ただ、社会の前提はコロコロ変わるし、想定外のことばかり起きる。変わらないものなど何もないということだけが変わらない。

今絶好調で飛ぶ鳥を落とす勢いのあの人も失言で大炎上して来週には表舞台から消えてるかもしれないし、「終わったやつ」と思われてるあの人も何かの拍子で復活してスターとして戻ってくるかもしれない。

常に嵐の中にいるようなもの

私たちは自分の人生を自分でコントロールできているような錯覚に陥りがちだが、実際は思いもしないような些細な偶然に左右されている。たまたま見た動画、たまたまSNSでフォローした人、ふらっと立ち寄った旅先での出会い、そんな些細なことで人生は劇的に変わってしまう。

人生のどん底で「死んだ方がましだ」と思える状況は永遠には続かないし、やることなすことうまくいって有頂天になっていても来年には人生のどん底に叩き落とされてるかもしれない。

全てものが移り変わっていくという現実を受け入れた上で、自分自身も変わることをためらわないというマインドが重要になる。世の中のチャンスは常に変化の周辺にあるので、自分も変わり続ける努力をすることでチャンスに遭遇する確率も上がっていく。

近代が作った「呪い」に苦しめられる現代

最近よく「正解がない時代」と言われるようになった。ただよくよく考えてみると正解があるように錯覚できた時代のほうが異常であって、もともと世界は正解がないほうが「平常運転」だった。
自然界の生物にとってはいつ天敵に食われるか分からないのが日常だし、戦時中は明日生きてるかも怪しい状態で生活していたはず。

むしろ「これをすれば人生安泰」のような方程式が存在していて、それを信じて頑張ればよかった時代こそが「ボーナスタイム」だったとも言えるかもしれない。「令和の正解がない時代」というのは「昭和のボーナスタイムが終わって元に戻った時代」と考えたほうが良い。

大昔、宗教が全盛の時代には「世界とは神様が作った場所」だと多くの人が信じていたので、人々は「分からないものは分からない」ということを受け入れて生活していた。疫病が流行ったり、飢饉になったり、土砂崩れにあっても「神様の行い」として不確実性を受け入れていた。

400年前ぐらいに宗教から科学の時代へとパラダイムシフトが起こり、デカルトのような哲学者たちによって「世界はじっくり観察すれば理解できる場所である」という「思想」が広まっていった。

宗教から科学の時代に変換し、世界は理解できる場所に変わった。

そして、科学が台頭した後は「分からないことは分からない」という態度はどんどん許されなくなっていった。かならず根拠があるはずだ。理解が足りないのだと。人類はよく分かってないことも「分かってるふり」をしないと社会を回していけなくなった。

そして、「世界は不確実な場所である」という事実を見てみないふりをしてきたが、最近になってその姿勢に限界がきてしまったというのが本音だと思う。「VUCAの時代」と叫ばれるようになったが、パンデミックやウクライナ戦争も誰にとっても予想外の出来事だった。そして想定外の出来事に世界中が今も振り回され続けている。

そして、社会の発展を促すために「努力は報われる」のような「信念」を全員が共有する必要があった。「大切なのは運です」と言われたら、誰も真面目に頑張らなくなってしまうし、社会も不安定になってしまう。

もともと自然界に生きる動植物にとっては世界は不確実で残酷な場所だったが、テクノロジーによって高密度にネットワーク化された社会は、自然界のような不確実性を人間界にも復活させつつあるように見える。
伝統的な銀行がSNSで信用不安が広がり数日で取り付け騒ぎで破綻に追い込まれたり、無名だった若者が全世界中でバズり一夜で大スターになるといった現象は、今後も増えていくだろう。

世界中がリアルタイムで密接につながって相互作用を起こす現代では、私たち人間も自然界の動植物と同じように不確実性からは逃れられない

運の良い人と悪い人

成功には運が大事だと説明してきたが「運の良い人」とは一体どんな人だろうか。ここで言う「運の良い人」とは「チャンスに遭遇する確率が高い行動をしている人」という意味で使ってる。

運の良い人とは?

この場合の答えは極めてシンプルで「運の良い人」の正体は「試行回数の多い人」となる。成功が「くじ引き」のような確率ゲーということが分かれば「くじを引きまくればいい」という結論になる。

サイコロを振り続ければいつか同じ目は出るのと同じ

しかもこの「くじ引き」には一人5回までといった「回数制限がない」という「バグ」がある。トライしようと思えば一人で何百回でも引き続けることができる。

自分が好きで得意なことならば試行錯誤も続けられる。さすがに宝くじだろうと引き続ければいつかは当たりを引く。あたり(成功)を引くと、世間は「あいつは才能があったに違いない」と錯覚してくれる。

そうすると、さらなるチャンスが舞い込んでくるようになり、当たりを引く確率はどんどん上がっていく。実績が出ると独自性が強化される。引くから当たるし、当たったからさらに当たりやすくなるというループに入っていく。

うまくいってる人をよくよく観察してみると、試行回数が圧倒的に多いことに気付く。私たちは彼らの成功事例だけを見て「あいつは天才だから」とか「ただ運がよかっただけ」とか好き勝手に言うが、実際は成功の裏で膨大な数の失敗を積み上げている。

失敗したことはメディアには取り上げられないし、本人も語りたがらないし、人々も興味がないので、なかったことにされてしまう。私の周りでも圧倒的に成果を出している人たちは試行回数が半端ない。「そりゃ当たるわ」と言いたくなる。

分類してみると、膨大な試行回数を繰り返すような「運の良い人」は概ね下記の3タイプに分かれる。

①自分が大好きで得意なことに没頭していたら成功していたタイプ
②小難しいことは考えずにとりあえずやってみよう!というタイプ
③成功が確率ゲーであることを見抜き戦略的に数をこなしたタイプ

クリエイターは①が多く、起業家は②が多く、投資家は③が多い印象だ。

運の悪い人とは?

それでは逆に「運の悪い人」はどんな人だろうか。もちろん「チャンスに遭遇する確率が低い行動をしている人」の意味で使ってる。これは運の良い人の特徴を裏返せばそのまま答えになる。

シンプルに「試行回数の少ない人」だ。1、2回ぐらい何かを試してうまく行かずに「自分には才能がない」と落ち込んでしまい、それ以上トライしなくなった人ということになる。当然の話だが、くじ引きを引く回数が減ると当たる確率も下がる。試行すらしなくなるので成功することは絶望的だ。

一度「はずれ」を引いても落ち込む必要はなし

この現象は、うまく行かなかった場合に「失敗した=才能がない」という風に、成功と才能を結びつけてしまうことによって起きる不幸だ。「失敗する=無能である」と思い込んでしまっているので、自分が無能であるということを証明したくない・他人に知られたくないという恐怖から、試行回数が減っていき、本当にそうなってしまう。

ただ、もし確率ゲーに過ぎないということを理解していれば、1回の失敗にそれほど気を落とさずに続けられるようになる。宝くじを1回引いて外れたからといって無能であるはずがない。

つまり「運の悪い人」から脱却するためには「失敗する=才能がない(無能である)」という固定観念から、早いタイミングで脱却できるかにかかっている。

もちろん、世の中の99%の人は「成功」と「才能」を結びつけて考えてしまうので、トライアンドエラーの過程で「あいつは無能だ」「才能がない」と嘲笑されることはあるかもしれない。
ただ、自分が大好きなことをやってる場合には気にせず続けることができるし、目の前のことに没頭していれば周りの評価も気にならなくなる。

回数制限のない「くじ引き」

前述の通り、運が支配する確率ゲー攻略のキモは「回数制限がない」というバグをフル活用することにある。おみくじなら回数制限はあるだろうが、このくじは何回引いても構わない。「大吉」が出るまで引ける。

引く気になれば一人で何百回もくじを引き続けることができる。それこそ当たるまで引き続けることができる。その仕組みを知ってて「100回引く人」と、知らずに「1回しか引かない人」で大きな差が出てしまう。

ふり続ければいつか目が揃う

しかも一度当たりを引ければどんどん確率が上がる「確変モード」も用意されてる。ますます引きまくる人が有利になっていく。

ただし、挑戦するならば若ければ若いほど有利だ。歳をとると気力も体力も集中力も衰えるので、試行回数が減ってしまうからだ。

また、若ければ失敗しても周りから大目に見てもらいやすい「ボーナスタイム」がある。逆に、歳をとるほど成功した同年代のライバルが「確変モード」に入っていき、差は縮まるどころか広がる一方になる。人生の挑戦は何歳からでもできるが、若ければ若いほど有利なのは否定できない。

ざっくりまとめると「攻略法」は下記のようになる。

  • 成功に必要なのは「才能」だと多くの人が考えている

  • しかし実際は成功は「運」の要素が強い「確率ゲー」である

  • 回数制限はないので「試行回数」が増やすほど有利になる

  • 好きで得意なことの場合は長く続けられるので有利になる

  • 若いうちのほうが気力と体力があるので有利になる

そして、日常で必要な「努力」と「試行」は下記のようになる。

  1. 自分に配られたカードを正確に理解する努力をする

  2. 好きで得意なことに没頭して独自性を磨く努力をする

  3. 変化に敏感になり自分自身も変わる努力をする

どんなアプローチでも結論はこのあたりに落ち着くと思う。

この文章を書いた理由

正直に言うと、この話は自分でも十分に試して消化してしまっているので、わざわざ文章に残すモチベーションはそこまで高くは無かった。
この令和の時代に「成功」みたいなノリは流行らないし、大した需要もないだろう。むしろ、この手の話に嫌悪する人のほうがもはや多いと思う。

書いた理由の一つは文章に残しておくことで、このテーマに一区切りをつけて次に進めるからだ。頭の中にあることを文章として身体の外に出すことで、新しいことを考えられるようになる。きっと心にも「容量」みたいなものがあるのだろう。

もう一つは、長年考えてきたテーマなので「昔の自分のような人間」の役に立って欲しいという気持ちが僅かながら残っていたからだ。「努力は報われる・夢は叶う」と教えられてきたが、「マイナス地点からスタートした人もハンデを覆すことはできるのだろうか?」という疑問をずっと抱いていた。良いカードが配られた人たちを羨ましいと思うことも度々あった。

「努力はコスパが悪い」と考える人もいるかもしれないが、正確には「ルールを知らずに闇雲に努力することはコスパが悪い」が正解だと思う。そして、普通に生きてるとルールが共有される機会はあまりにも少ない。

ルールを熟知してる人たちがルールを説明するメリットはない。競争相手を増やすだけだからだ。大半の人は自力でゲームのルールを推測し、自力で攻略法を編み出さなきゃいけない。

もっと早く知っていれば自分も遠回りせずに済んだのにと思うことはある。客観的に見ても自分は他人から共感を持たれるような存在ではないし、世の中の多くの人の苦悩にも心から寄り添えなくなってきてるのも感じてる。だから、完全にそうなる前に書いておくことにした。

ここに書いたことはあくまで「手段」であって、これを使って何を実現したいかの「目的」のほうが大事だ。まだ自分の人生に納得がいってない「諦めの悪い人」のヒントになることを願ってる。