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「言いたいことが言えない」の克服

会社の会議で、議論が白熱する。声の大きい奴がためらいもなく自分の意見を堂々と述べる。別の声の大きい奴も自分の意見を発する。意見の出し合いで議論は盛り上がる。自分もふっと良い意見が浮かぶ。「よし、言ってみよう! 皆の反応が楽しみだ!」 だが、発言のタイミングがつかめない。そうこうするうちに議論はさらに進む。「さっきは良い意見と思ったけど、大丈夫か?」 時間とともに自信がしぼんでいく。「皆から失笑されないだろうか?」 議論から自分だけ置いて行かれる気持ちになる。結局最後まで何も言えないまま会議は終わってしまった。自分の勇気のなさを思い知り、落ち込む。「何でオレは自分の意見も言えないんだ?」 

自分のアイディアをプレゼンしている時に、出席者のひとりが反論する。想定外の反論だ。「しまった! そんな反論は予想していなかった! まずい! 対策を準備していない!」 相手は言葉巧みにまくし立てる。頭が真っ白になる。何も言い返せないまま、無残に終わる。肩を落として、会議の後、自分の席に戻る。後に冷静になると言い返せることはいっぱいあった。あの場で相手に好き勝手に反論させてしまったこと、それに対して何も言い返せなかったことを悔やむ。不甲斐ない自分に腹が立つ。「皆は論破された自分を哀れな奴、ダメな奴だと思っているだろうか?」 

何度もこんなフラストレーションを味わった。「言いたいことが言えない」は内向的な人間には越えられない壁なのだろうか? 勇気がないだけなのだろうか? そうではない。勇気などなくても、内向的であろうと、克服できる。

自分よがりがフラストレーションを生んでいた

フラストレーションを味わった時の自分の心理を思い返すと、かなり不自然だ。勝手に自分を極端な状況に追い込んでいる。まるで二度とない機会を逃して、取り返しのつかない失敗をしたような気持ちになっている。

会議で自分の言いたいことを言いたかった。でも、言えなかった。会議は終わってしまった。すでに終わった会議だから、確かにその会議で発言する機会は二度と来ない。でも、二度と来ないものって何か? 
・会議中に自分の言いたいことを言ってスッキリする機会。
・自分がよい意見を言ったことを皆に承認してもらう機会。
・意見を堂々と言える勇気ある自分を感じて自己満足する機会。
ポジティブに捉えれば自己成長を目指している証(あかし)かもしれない。でも、悪く言えば、会議を自分よがりにしか捉えていない。
本当の会議の目的って何だ? 誰が何を言ったか、言わなかったか、ではない。誰の意見を通すかでもない。チーム全体で最もよい方針を決めることだ。俯瞰して会議全体の目的を考えたら、言いたいことを言ってスッキリしたかどうか?なんてどうでもいいことだ。

逃した二度と来ない機会とは、独りよがりの自己満足の機会だけだ。本当にチームのために大切なアイディアを思いついたのなら、ひとつの会議が終わった後だって何度でもチャンスはある。取り返しのつかないものなど何もない。

自分のアイディアに反論してきた憎い相手に、聴衆の前で理路整然と言い返し、格好よく論破したかった。でも、現実は逆だった。何も言い返せないまま、ブザマに論破された。これも、プレゼンの機会を独りよがりの自己満足の機会とだけとらえているからフラストレーションとなる。失った独りよがりの機会とは、
・プレゼンも質疑応答も無難に終えて自己満足する機会
・反論してきた相手を聴衆の面前で論破し、ギャフンと言わせる機会
・皆をうならせるプレゼンをして承認欲求を満たす機会
これらの機会は確かに失った。悔しい。 でも、何で自分のアイディアをプレゼンしたのか? 自分のアイディアでチームに貢献したいからだ。 何でチームは自分にプレゼンの機会を与えたのか? 自分のアイディアがチームに貢献するかもしれないと皆が期待してくれたからだ。

チーム全体で俯瞰してみれば、そのアイディアがチームに役に立つのなら、言い負かしたか、言い負かされたかなんて、どうでもいいことだ。プレゼンで反論を受けたなら、その部分を修正すれば、より強固なアイディアになるはずだ。反論してきた相手は、チームプレー精神ではなく、単に自分が目立ちたいから反論したのかもしれない。でも、そんなことはどうでもいい。そうであっても、自分の捉え方次第で、その反論をアイディアを強固にすることに使える。

会議やプレゼンを、「自分がうまくやる」というちっぽけな目線から、会議やプレゼンの本来の目的、チーム全体への貢献という一回り大きな目線で捉えれば、「自分が言いたいことが言えなかった」などのフラストレーションは取るに足らないことだと気づく。自分の言いたいことが言えれば、それはそれで素晴らしい! でも、自分の言いたいことが言えなくたって、本来の会議やプレゼンでチームが一歩進んだなら、それで十分だ。

「言いたいことが言えなかった」時の真の弊害

言いたいことが言えなかった時、その場ではかなり落ち込む。取り返しのつかない失敗をした感を抱く。でも、冷静に過去を思い返すと、それでチームが取り返しのつかない方向へ進んでしまったケースなど一切思い当たらない。本当に自分が思いついたことが良いアイディアでチームを良い方向へ導くものであれば、一度くらい発言の機会を逃したって、後日、仕切り直す機会はいくらでもあった。

言いたいことが言えなかった時、その場では、それがとても価値のあることだと感じた。しかし、しばらくするとそれが何であったかも忘れてしまうこともある。忘れる程度なら、大した価値はなったのだ。言いたいことが言えなくて悔しい思いをした。だけど、忘れてしまう程度のことだから、言わなくて正解だったのだ。他の人は、自分が会議で言いたいことが言えなかったかどうかすら知らない。覚えてない。

言いたいことが本当に良いことだったら、後でいくらでも仕切り直しできる。言いたかったことが何だったか?思い出せないくらい大したことでなかったのなら言わなくて正解。どちらにしろ、「言いたいことが言えない」は、俯瞰的に見たらチームに対して何の弊害も生んでいない。

だとしたら、「言いたいことが言えなかった」の真の弊害って何だろう?

真の弊害は、「言いたいことが言えなかった」を悔やみ、自分で自尊心を傷つけることだけだ。自分で理由を作って、こじらせて、勝手に自分にダメ出しして、自尊心を傷つけているだけだ。

そうと分かると、「言いたいことが言えない」を経験しても、それを悔やむことが馬鹿らしくなる。

直さなくてよい、捉え方を変えるだけ

自分は「言いたいことが言えない」とコンプレックスを持っていたって、無理に直す必要はない。と言うか、それは100パーセント正しく自分を理解していない。過去を思い返せば、どんな場面でも全てで「言いたいことが言えない」状況だったなんてありえないはずだ。「言いたいことを言えなかったことはたくさんある。でも言えたこともある」が本当だ。自分の調子にもよる。置かれた状況にもよる。周りの雰囲気にもよる。「言いたいことが言えなかった」際にいちいち落ち込むより、美味しいものでも食べて、次に「言いたいことが言える」ように元気になる方がずっと良い。

議論やプレゼンに参加する時の捉え方を次元上昇させる

言いたいことを言ってスッキリしたい。自分の意見を言って、みんなに承認されたい。そんな自分よがりのゴールから、会議やプレゼンの真のゴール、チームのゴールへ自分の捉え方を次元上昇させる。

会議やプレゼンの真のゴールを考える。それは、そこに参加した皆が熱くなれる最善の方針を決めることだ。チームに素晴らしい方針ができれば、それで十分だ。自分が言いたいことを言えたかどうかなんてどうでもいい。

捉え方を変えてみると、自分にとって大切な会議やプレゼンはかなり限られていると気づく。皆が参加しているから自分も何となく参加する会議では、その会議の真のゴールは?などとは真剣に考える気にはならないからだ。捉え方を変えれば、たくさんの会議が自分には必要なものではないと気づく。そんな自分にとって大切でない会議には、理由をつけて欠席してしまうのがよいかもしれない。そんな会議に何となく参加してばかりいるから、そこで発言できなくて、自分の存在価値が見い出せなくて勝手に落ち込んでいるだけかもしれない。

本当に自分事として会議の真のゴール、チームのゴールを考えられる議論にだけ参加する。すると自分が「言いたいことが言えるかどうか?」なんて意識しなくなる。とても不思議なことに、そう捉え直すと、自分が本当に発しないといけないことは自然と口から出てくる。他の仲間が自分の言いたいことを発言してくれたら、それを安心して聴いていられる。自分が言ったか?他人が言ったか?なんてどうでもよくなる。

「言いたいことが言えない」の克服

「言いたいことが言えない」ことがあると、落ち込んだり、自分に腹が立ったりする。誰もが体験することだと思う。ただ、これに最も辛辣な評価を下しているのは、他の誰でもない自分自身だ。そして、自分にとって本当に大切でない会議に多くの時間を使っているから、「言いたいことが言えない」状況がたくさん生まれているだけかもしれない。自分が本当に大切にしている議論だけに焦点を置き、自分よがりのゴールから議論本来のゴールへ、自分の議論に対する捉え方を次元上昇させれば、「言いたいことが言えない」は意識することもなく、自然消滅する。




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