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アメリカで働いて感じる、やっぱりここが変だ、日本の会社

アメリカで20年近く働いた。そして、日本で働いていた時のことを思い出してみると、「やっぱり変だ」と感じる日本の会社の慣習がある。もう20年前のことだから、変わっていると期待したい。でも今も残っているとしたら、そこで働く人の元気を奪い、やる気を削ぎ、成長を妨げ、会社にとっても、そこで働く人にとっても、良くないと思う消えてほしい慣習だ。

会議での不健全な上下関係

日本にいた時、会議など大勢の人の前で、上の地位の人が、若手社員を叱責したり、大声で叱りつけるのを何度も見てきた。「何をやってるんだ!」「どうしてこんなことになるんだ!」「もう一度、やり直せ!」 
自分も若い時に何度かそんな経験をした。担当したプロジェクトの問題解決案の発表した際に、その内容が不十分だったり、上部からみて期待外れだった時などに、それは起こった。後輩が同じような叱責を受け、それを事前に防いだり、叱責を受けている途中に助けられなかったことは、さらにたくさんあった。知識も経験も乏しい若手がプレゼンする内容に不十分な点があることはしょうがない。それを経験豊富な上司から指摘され、叱責されても致し方ない。こうやって若手は鍛えられ、成長していく。若い頃には誰もが通る道だ。日本にいる時はそう思っていた。

ところが、アメリカに来てから、そのような会議を経験した記憶がない。議論の内容で対立し、会話が熱くなることはあるが、会議中に上司が部下を叱責したり、叱り飛ばしたりすることはない。そもそも、部下を会議中に叱らなければならないような状況とは、上司がその部下を十分にマネージメントできていないという上司の汚点でもある。上司は多数の参加者のいる前で、ひとりの人間を叱り、萎縮させることのメリットが何もないことをよく知っている。会議中に感情的に個人攻撃をする行為自体が誰からも軽蔑されることも知っている。経験豊富な上の地位にいる人の会議での重要な役割のひとつは、経験が少ない若手でも誰でも自由に意見やアイディアを発言できる、安全な環境を維持することだ。

日本にいる時は、人材育成のための上司の「アメとムチ」のムチの部分と信じようとしていた。だが、上の地位にいる者の意見がより正しい、上の地位にいるものは下の者の未熟さを叱りつけて良いという不健全な上下関係の暗黙のルールが日本の会社文化に根強く残ってしまっている。上の者が単なる権力・地位を周りに誇示するマウント的な意味もあるのだろう。大勢の前で上司に叱られた若手が、上司が発した言葉に本当の意味で100%納得できることが、いったいどれくらいあるだろうか? 納得できなくても、更には、本当は自分の意見の方が正しいのではないか?と思いつつも、自由な意見が言える安全な環境でないため、問題を放置してしまった場合もあっただろう。本当に上の者が、若手の意見が不十分で、そのことを分からせ、その若手の成長を思っているのなら、感情に任せて叱責したり、大きな声で叱りつけたりせず、どんな部分が不十分、どんな点にさらなる考慮が必要などを冷静に伝えるべきだろう。健全な議論ができず、叱責して若手の意見を潰し、自分の意見だけを通してしまう上司がのさばる会社が今でも日本に多ければ、今後ますます日本の会社は世界から置いていかれるだろう。今、振り返ると人材育成どころか、せっかくの若手の成長をダメにしてしまう悪習だった。それが普通だと思っていた当時の自分や周りにも怖さを感じた。今では、そんな上司はずっと少なくなっていると期待しているが。


必要以上に格差を恐れて分業化できない

日本で働いていた時と比べると、アメリカでは、会社にいる時間、働いている時間は圧倒的に減った。夕方、5時以降にオフィスにいると、まるで深夜残業しているかと錯覚するように誰も残っていない。働く時間も人によってバラバラだ。途中で運動に行ったり、子供を迎えに行ったり、自分の仕事さえ支障なくしっかりこなせば、いつ・どのように働こうと問題ない。

一方、働く時間自体は大きく減ったのに、効率性・生産性はアメリカに来て格段に上がった。一度に担当できるプロジェクトの数も、そこから達成する成果の量も、アメリカに来て圧倒的に多くなった。僕個人の問題だけではない。会社全体で、効率性、生産性がアメリカで働く方が圧倒的に高い。自分が年を食い、知識や経験が豊富になり仕事効率が上がったこともあるにはあるだろう。でも、それ以上に自分が本当にやらなければならないことだけに集中でき、自分がやらなくてもよいことは他人にやってもらうという分業が進んでいることが最も大きな要因だ。

例えば、自分のプロジェクトで新たな試験を行う場合、まず最初に自分がやらなくてはならないことは、その試験の根幹となる構想を練ることだ。構想を練って、それをチームの仲間に伝えたら、あとの雑務はチームのそれぞれの専門担当者がやってくれる。試験自体は、外注して専門業者にやってもらう。試験の契約、試験に使う材料の送付、その他の細かなやり取りは、それぞれの専門担当に全部任せる。自分は自分のプロジェクトの根幹にかかわる重要点をチェックすれば良い。試験の結果が出れば、根幹に関わる重要点だけを確認する。細かいデータの解析は専門職に任せる。レポートもほとんどはメディカルライターに任せる。自分の専門分野で本当に大切な部分の記述のみをチェックすればよい。自分の大切な時間の大部分を本当に自分にしかできない自分の専門分野に使うことができる。

日本で働いていた頃は、もっともっと周辺の雑務に時間を取られた。委託先と契約したり、細かなやり取りをしてくれる専門担当者はいない。試験材料を送付してくれる専門担当者がない。レポートの構成やテンプレート、体裁の調整、校正やクオリティチェックを担当してくれるメディカルライターもいない。これらを全部ひとりでやらなければならなかった。アメリカに比べ分業が圧倒的に進んでいない。日本の仕事文化の中に、分業して雑務を別の人にやってもらうことに何となく罪悪感を持ってしまう部分がある。それで分業が発達しない。その結果、自分が本当に取り組むべき部分に割く時間が減り、生産性が落ちる。経験できるプロジェクトの数も少なくなり、生産性が低いから、自己成長も遅くなる。

日本では、職務・職位だけを物差しとして、本来多様性と捉えらればいいような仕事内容の違いを、敢えて格差として、それを生むことを恐れてしまっていると感じる。「Aという仕事は、Bという仕事より格下の仕事だ」「Aという職務で使い物にならなかった奴は、Bという仕事に飛ばせ」など。
ジョブ型雇用では、Aという職種のみをやるため、Bという職種のみをやるため、それぞれの専門職が会社に入る。そのAで会社が期待するパフォーマンスが出せなければ、Bに移るという選択肢はない。Aをやるために採用されたのだから、Aができなければクビだ。メンバーシップ型雇用では、自分の希望に関係なくAという職種に配属される。その結果、Aで結果が残せなければ、Bの職種に左遷される。「Aができない奴がBに回される」のような仕事の間に敢えて格差感を作ってしまう。職種間にそんな格差感を植え付けるから、十分な分業が発達せず、その結果、誰もがそれぞれに雑務を増やす。本来は多様性と捉えられるものまで、職種という1つの物差しだけで比較して格差としてしまうから、罪悪感を持ち、分業にできず、誰もがそれぞれにたくさんの雑務をやることになり、生産性を落としている。

本当はそれぞれの仕事を、自分の勝手な専門職を物差しとして比較する必要などないかもしれない。それぞれの人が、それぞれの価値基準で自分の仕事の意味を捉えている。ある人は、ある特殊機器を使った計測を得意とする職人。ある人は、レポートの細部まで英語文書を整えるメディカルライターの専門職。ある人は、仕事以外に人生の価値を持ち、仕事は自分の一定の時間を捧げ収入を得るものと割り切っている。多様性と捉えればよいところを、自分の思い上がりで、まるで自分の専門職を中心にした物差しだけで、自分が格差の頂点に立って、うまい汁を吸っているように自分で勘違いして罪悪感を持っているだけかもしれない。自分が、本当に取り組むべき時間を減らしてまで、やりたくないことに時間を割くことが、本当に格差をなくすことに繋がるのか?考えたほうが良いかもしれない。このまま、各自の特性を生かした分業化が進まなければ、日本の会社は圧倒的に効率性・生産性が低いままかもしれない。


長時間労働

日本では、いい加減な大学生活を送ったにも関わらず、バブル末期でとても恵まれた優良企業に就職でき、その中でもさらに恵まれた職場環境にいた。この会社のおかげで、ここで出会った上司・同僚のおかげで今の自分があると素直に思える。ただ、そんな恵まれた環境だったが、それでもアメリカで働くようになった今、振り返ってみると、日本ではとにかく長い時間働いていたなと感じる。博士号を取り、アメリカに赴任するという目標を持っていたから、がむしゃらに働けた。とにかく長い時間、がむしゃらに働くことは、とても大変なことで、決していけないことではない。でも、それを何も考えずにただ続けているのなら、ある意味、サボっていると今では思える。「長時間労働で、食事・睡眠・運動という自分のパフォーマンスを大きく決定づける超基本の部分が犠牲になっていないか?」「ただただ眼の前の仕事の遂行にすべての時間を使うだけでなく、自分を成長させる自己投資にも時間を使っているだろうか?」 もし、これらが疎かになっているとしたら、長時間労働は、短期間集中の働き方の場合よりも会社に貢献できていないかもしれない。長時間労働するだけで全く成長しない人を雇用し続けるのは、長期的に見れば会社にとっても負債を抱えることになってしまうかもしれない。

自分のミッションをしっかり持ち、やるべきことを見極め、没頭した結果、長時間働いたのなら、問題ない。充実した楽しい時間、しかも、自己投資にもなった時間を過ごし、自己成長したことにもなる。ただ、何も考えずに、周りに流されて長時間労働をただ続けているのなら、それは結局のところ、自分自身のためにも、長期的に見て会社のためにもなっていない。今慌てて始めた日本の会社の時短化の取り組みを見ていると、管理職が、とにかく部下に残業をさせないようにしているだけに見える。本当に大切なのは、個々人が自分の頭で時間の使い方を考えて、働き、自己成長するプロフェッショナル意識を育てることだと思う。


偉そうに、日本とアメリカの働き方をすべて把握しているかのように書いてしまったかもしれないが、もちろん、僕の限られた経験からのみの偏った印象かもしれない。でも、上記のような慣習が当たり前とされている日本の限られた職場環境の中だけで働き、自分の可能性を不必要に狭めてしまっている方がいたら、ぜひ伝えたいと思った。






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