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「自分にはなんらかの才能があり、まだ世界が気づいていないだけなのだ」 - リアル脱出ゲームに至る道

大学は入学してすぐ楽しくて。
やっと春が来たのだと思った。
高校時代も楽しくやってたとはいえ、別に学校に行きたかったわけじゃなかった。
行かなくちゃいけないから行っていて、少しでもそれを楽しめるように友人をつくったり、いろいろ工夫したりはしたけれど、別に目が覚めてすぐにワクワクながら「今日も高校へ行くのだ!」とか思ってたわけじゃない。
大学は少なくとも最初の一年くらいはとにかく楽しくてしょうがなくて、ウキウキしながら通ってた。
入学してすぐの新歓コンパは無料だったのでいろんなサークルに顔出して飲んでた。
とにかく女の子がみんなかわいく見えた。
春だった。
右を見ても左を見ても春だった。
今でも春が来るとあの時の浮きたつような気持ちを思い出す。

最初は演劇のサークルに入ろうと決めていた。
受験勉強の合間に深夜テレビで演劇の特集をやっていて、それが普通のテレビドラマよりもうんと面白く思えて、その世界に入りたいと思っていた。
演劇の世界にぼんやりとあこがれていた。
しかし、ふらっと演劇サークルを覗きに行くと、想像よりもうんと泥臭いというか、そこで行われていることが地味すぎるというか、一言でいうと華やかじゃなかった。
演出家がポンと手をたたく。
役者が演技を始める。
数秒後にまた手をたたく。
演出家は言う「今のところ後少しだけ間をためて」
役者は言う「わかりました」
そして演出家はまた手をたたき、数秒後に止める。
「もう少しだけ感情抑えてくれる?」
「はいわかりました」
手をたたく。止める。演技する。止める。その繰り返し。
とても俺には無理だと思った。そういうことじゃない。求めていたのはもう少しざっくりとしていて華やかで大局的なものだった。最低限の努力で大雑把にモテたりする世界を希求してた。
今でもそうだけど、緻密な何かを追求し続けて良いものがつくれるタイプじゃない。
ざっくりとしたコンセプトに、ざっくりとした設定やアイデアをどかどか入れていって、その結果出来てくるものがある程度整合性が取れている、みたいな物を作るのが得意だ。
演劇におけるこの「一瞬の間」を大切にする作り方はとても憧れるけれど、僕には難しいことだった。

まあそんなわけで、入学早々当てが外れて呆然と構内をうろうろとしていたら、野外ステージから音楽が聴こえてきた。へたくそなスリーピースバンド。しかし心をつかまれた。
かっこよかった。
そしてへたくそだった。
なんなら俺にでもできるんじゃねえかってくらい下手だった。
そしてそのことにとても興奮した。音楽は選ばれし者たちが三歳くらいからピアノを初めて、毎日毎日鍛錬を積み、血のにじむような努力を続けてやっと売れる可能性が0.001%くらい出てくるようなつらい世界だと思ったいたのだけれど、目の前にいるスリーピースバンドに心が動いているのであれば、それは自分でもできるのではないかと。完璧である必要などないのではないかと。むしろ完璧でないいびつさへの憧憬みたいなものがここで芽生えた。

そんなわけで僕は軽音のサークルに入ることになります。

軽音サークルはとにかく楽しくて。
スタジオに入って3コードでセッションして、それに合わせてボーカルでガナってるだけだったけど、それでもすごく楽しかったし、うれしかった。スタジオで大きな声で歌えることがすごいことだったし、しかもドラムもベースもギターも人が演奏してた。ひたすらジャムセッションをしてた。スリーコードでぜんぜんかっこいいやんと思った。普通にブルーハーツの曲とかスリーコードでいくらでも歌えることに気づいた。
「なんならワンコードの曲もあるよ」と先輩に教えてもらってファンクの世界に入っていった。コードは少なければ少ないほどかっこいいと思っていた。ワンコードファンクは音楽の根幹だと今でも思っている。あんなリズム感のあるボーカルじゃないけれど。
そんなわけで、ファンクにのめり込んでいく僕はJBとかスライとかのカバーバンドをはじめる。最初ドラマーしかいなかったからドラマーズっていうバンド名だった。ドラムと僕だけだった。そのあとベースとギターが入ってきて、ちゃんとバンドになったけれどバンド名は変わらなかった。大学一年生の終わりごろ、1995年の3月にライブをしようとしていて、チケットも40枚くらい売れていた。めちゃくちゃ緊張していてめちゃくちゃ練習していたけれど、その時阪神淡路大震災がやってきた。
学内でも数人が死んだ。
家がつぶれたとか、住む場所がなくなったとか、バイト先がつぶれたとかそんな話が嘘みたいにたくさんあった。僕自身もマンションの11階に住んでいたので、激しく揺れて危うく本棚の下敷きになって死ぬところだった。たまたまその時間は別の場所で寝ていたので無傷だった。
あの時関西は本当に闇だった。
どっちを向いても希望なんてなかった。死がそこら中に溢れていて、死の予感はさらに深く街を包んでいた。

僕の親類や友人はだれも死ななかったけれど、それでもみんな落胆していたし、未来がみえなかった。戦争の最中みたいだった。電話は通じなくなり、情報はテレビやラジオだけで、インターネットのまだない時代の混乱が長く続いた。

そんなころに僕はソウルフラワーモノノケサミットに出会った。
ソウルフラワーモノノケサミットは、元々はソウルフラワーユニオンという稀代のロックバンドのアコースティックバージョンだった。

阪神淡路大震災の半年ほど前に行われた村八分のちゃー坊追悼コンサートで観たソウルフラワーユニオンとボガンボスのライブはもう二度と忘れることはないだろう。
それはあまりにも神がかったステージで、出演するすべてのバンドが激烈にかっこよくて、ある一つの気配をまとっていて、それは完全に世の中の流れと真逆に向かう強い意志のように感じて、僕の人生観はこの時にはっきりとある方向に向かって行った。
その中でもボガンボスとニューエストモデルは今に至っても僕のヒーローであり続ける最高のバンドで、彼らが纏っていたぴったりと時代には寄り添わないのにかっこよくあるたたずまいは、今でも僕の目標です。
さて、そんなソウルフラワーユニオンの人たちが震災後にはじめたのが「ソウルフラワーユニオンモノノケサミット」だった。
電気の通らない停電が日常化した被災地に、エレキギターを三線に、ピアノをアコーディオンに、ドラムをちんどん太鼓に持ち替えて、被災地の人たちのために昭和歌謡のカバーを演奏し、自分たちのオリジナルもその編成で再構成し、新曲を作る過程で生まれた曲が「満月の夕べ」だった。
それはまっすぐに阪神淡路大震災を歌いながらも、その場所にいた人たちはもちろん、いなかった人たちの魂まで鎮めるような歌だった。
あの時代に、あの場所にいた人間なら、あの曲で心が動かされないことはない。ほんとにとっぷりとくれた暗闇のようだった関西があの曲で少しずつ明るくなっていたような気さえした。
あの時に音楽は本当に世界を救うのだと目の当たりにした。何より僕が救われた。
死があふれて、未来が見えない闇の中でこそ、音楽が響き渡り心を震わせる。
そしてその心の震えから、また新しい旋律が生まれることを知った。
ソウルフラワーユニオンモノノケサミットがなかったら、僕はこんなに強い気持ちでエンターテインメントを人生における最重要な必需品だと信じることは出来なかっただろう。

その年同志社大学は、学年末の試験がちょうど震災と被ったことを理由に「震災が大変だったせいで試験を受けられなかった学生には全員単位を与える」ことを決定した。軽音サークルの面々は嬉々としてこれを受け入れ、本来は手にすることのなかった単位を手に入れた。

大学時代は3年生くらいまではただただ飲んで。
ソウルバンドで歌って。
なるべくかわいい女の子と仲良くなって(ほぼ失敗したけれど)
あとは効率よく単位を取得することしか考えていなかった。

無目的で、楽しくて、くだらないことに切羽詰まっていて、最終的にすがりつく場所が音楽だけになっていたのかなと思う。
就職活動をするわけでもなく、勉学に打ち込むわけでもなく、傷口をなめ合うように音楽仲間と集まって、飲んで、ライブをして、くだらない話をし続けた。
何もない彼らの不安と空白。
そんなものが誰でもない彼らを繋いでいた。

三年生になったころからオリジナル曲を書き始めた。
最初に書いた曲は「井戸を掘って」

井戸を掘る他何もしてない
ただ掘ってまだ掘って
水なんか出てこやしないのに
水なんか出てこやしない
井戸を掘って
井戸を掘って
井戸を掘って
井戸を掘って

何も手にしていなかった時に、何も手に入らないからと言ってなにもしないってわけじゃねえぞってことを歌った。コードは二つだけ。メロディだって単調なままずっと続く。
でもこの曲が作れたことはとてもうれしかったし、生きていく意味みたいなものに触れた気がした。
水なんか出てこないのに、ただただ井戸を掘る。
それでいいし、それが生きていく意味みたいなものだと今でも思う。
どうせ水なんか出ないけれど、せめて必死で掘るか、と。
それは何も手にしていない僕が、それでもなお生きていく宣言みたいなものだった。
あの曲が書けて、その後行きやすくなったように思う。
すべてのサブスクで聴けるので、よかったら聴いてみてくださいね。

大学時代。
最初はとにかく楽しくて。
その楽しさが少しずつ色あせていき、自分の内側を見つめ始めた。
歌詞を書いてメロディを書いて、プロになりたいと強く願った。
周りにはモラトリアムみたいなだめ人間と、きりきりと就職に向けて動き出すきっちり人間に二分化されて行った。
四年生になった時に、これまで友人だった人たちと急に連絡を絶った。
なんでだったんだっけな。
サークルもひと段落した時で、いろんな人間関係にイライラしてた気がする。
僕も軽音サークルの部長などやりつつ、力及ばずでいろんなミスをして、それを揶揄されてるように感じたのもあったように思う。
とにかく一旦全部の連絡を絶った。
バンドメンバーだけが僕に連絡できた。

就職活動は本当にまったくしたくなかったし、スーツに袖を通すだけで吐き気がしたけれど、母親から「浪人と大学四年分の学費を払ったことが納得いかないから一旦就職しなさい」という言葉に対して「それはたしかにそうだな」と思ってしまったので粛々と就職活動をした。と言っても集団説明会に向かうスーツ姿の学生の列を見て哀しくなりすぎて帰ったり、最初に受けた面接で「志望理由は直観です」とか答えてすぐ落ちたりした。
二つ目に受けた会社は、家から一番近いところ(なるべく音楽活動をしたかったから遠いところは嫌だった)を受けてなぜか通った。職種なんかどうでもよくて、近さだけで決めた会社だったけれどそこが印刷会社で、そのことも僕の人生にものすごく影響することになる。

就職が決まって、そこから八ヶ月ぐらいかな。
僕は何もしなかった。卒業論文は書いたけれど、それだって大した内容じゃなかった。
音楽で生きていければと強く願った。
でも、何の当てもなくて。デモテープを作って送って、何のリアクションもなくて。
あの頃の不安定さを言語化するのはそれなりにしんどい気もする。
またいつか言葉にできるかもしれないけれど、今は一旦するりと通り過ぎることにする。

あとは毎晩ライブハウスで飲んでた。
そしてなぜかみんながおごってくれたのでいくらでも飲めた。
なんでだったんだっけな。
わかんないけれど。
そのころライブハウスのおやじっていう存在が京都にごろごろいて、みんな色んなこと言って来た。そしてビールをおごってくれた。
まあ飲めよって。
「すごいバンドが今日演奏するから来いよ。ただで入れてやるよ」って。
その人たちの関係はそれから10年の根幹になっていく。
今も薄く続くライブハウスとの関係性は、僕の人生の幹にはなっているんだろう。たぶん。

大学を卒業するとき、なにも思わなかった。
さみしくもなかった。
ただこれからやってくる濁流がどんなものなのかも想像できなくて、未来への不安とそれを切り裂いてなんとか音楽家になろうという気持ちだけがあった。
音楽家になれないならそんな人生は嘘だとすら思っていた。

でも、このnoteを読んでくれているみなさまならわかってくれると思うけれど、音楽をはじめたのは大学に入ってからで、曲をつくり始めたのは3年生からで、オリジナルの曲でバンド活動をしたキャリアはたったの一年間くらいのくせに、なんかいきり立っちゃって「俺は音楽で生きていくのだ」と思い込んでる感じには注目してほしい。

この「自分にはなんらかの才能があり、まだ世界が気づいていないだけなのだ」という宗教は僕の人生で通底してあり、それは今後の人生にも大きな影響を与えていく。


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