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このままじゃ人生を変える一撃なんて撃てない - リアル脱出ゲームに至る道

大学を卒業して、なんの覚悟もなく社会に出た。
働くことに希望なんてまったくなかったし、責任がなくただ自由に生きているだけで意味がある場所にいたかった。

でも、その頃の世の中のほとんどの会社がそうであるように、僕が入った会社もとんでもなく長時間の労働が当たり前になっていて、朝出社したら徹夜をした先輩たちがソファーで寝ていたり血走った目でパソコンとにらみ合っていた。
僕は営業としてその会社に入り、ノルマの予算が与えられ、京都中のさまざまな企業に飛び込み営業して、見積もりを出して、注文を受け、印刷所に指示を出し、発送の手配をして、納品の確認をして、請求書を送った。その結果入金される額が僕の成績となった。

会社に勤めていた時代は人生で最悪だった。
自分が何者なのかまったくわからなくなった。
もう研修の時から辞めたかった。
禅宗のお寺で禅修行みたいなことをやらされたんだけど、組織の中でうまくやることを強要されていることに耐えられなくて、夜中に抜け出してやろうかとすら思った。
これまで積み上げてきた「ささやかな個の尊厳」みたいなものが根底から覆されていくようだった。

毎日週末の休みのために働いていた。
月曜日がはじまると、火曜日が待ち遠しくなり、水曜日になれば「やっと中日まで来た、後2日働けば休める」と思い、木曜日になると休みへの期待で心がざわめきだし、金曜日は明日からの休みが楽しみすぎて仕事がなにも手につかなかった。
毎晩毎晩家に帰ったらすぐにギターをもって、曲を作った。曲にすべき感情の動きがすぐそばにあった。いくらでもメロディと言葉がギターとともに紡がれていった。

土日はバンドのリハーサルかライブに当てられた。
ライブは月に2回ほど。
それで誰かが救ってくれるのを待ってた。
良い曲を書いて、良い歌を歌っていればそれで認められるんじゃないかと期待してた。
いつか誰かがやってきて「君いいね!一緒に世界に羽ばたこう!」と言ってくれるんじゃないかと思ってた。誰かにここから連れ出して欲しかった。
でもそんなことは起こらなかった。
毎晩毎晩期待が裏切られていった。
僕がつくるものは誰からも選ばれないのだと思った。
そしてゆっくりと自分が摩耗していく気がしていた。

日曜日の夜が、やってくるともうなにもできなくなった。自分がいるべき場所がどこなのかすらわからなかった。
お金のためにやりたくないことをやるとはこんなにつらいことなのかと学んだ。
調子よく話を合わせて、なんとなくうまくやることは出来ていた気もする。営業成績もそこまで悪くはなかった。でも、致命的に楽しくなかった。やる気も出ないから、いつも外回りに行ってきますと上司に言って外出して、すぐに家に帰って昼寝してた。

仕事は印刷の営業。
ホテルや学校などの印刷物を受注していた。
得意先に話を聞きに行って、受注して、デザイナーに発注して、工場に指示書書いて、印刷する。途中に何度も確認を取る。「これでいいですか?」「これでいいですか?」
自分で判断することなんて何もなかった。ずっと訪ねていた。
「これでいいですか?」と。

そこで様々なことを学んだ。
名刺の渡し方。電話の話し方。挨拶の仕方にはじまって、社会がどんなふうに回っているのか。
社会は大人たちによってもっと緻密にコントロールされているのかと思っていたらそうでもなかった。わりとみんなふわふわ働いてた。ぜんぜん効率よくなかったし、無駄な会議ばかりだった。上下関係ってのは生産的な物ではなく、ただある種の自尊心を守るためのものだと思った。

仕事はつまらなかったけれど、仕事しながらもただ一つの大切なものが音楽で、音楽にすがるように生きていた。
だからなのかわからないけれど、この時代に書いた曲は結構名曲が多い。
この時代のしんどさみたいなのが曲の中に沁み込んでいて、歌っているとよくこの頃のことを思い出す。言葉とメロディが切実にどこかにたどり着こうとしている。
まあどこにもたどり着けやしないんだけど、
その「たどり着かなさ」がとてもよい。

そんなわけで、僕は仕事が終わったらライブハウスに行ってライブの打ち上げだけに参加したり、ライブハウスの店長やブッキングマネージャーやバイトと飲んだりしてた。
ひたすら飲んでた。
23時に仕事が終わり、そこから飲みに行って3時に家に帰ってきて、ギターを弾いて曲を作って5時に寝る。みたいな生活だったな。会社には10時に行けばよかったから、9時ごろ起きてたのかな。あんまり覚えてないけど。
会社生活を通じて学んだことは、技術と知識が大切であるってこと。
才能とか能力とかいう言葉よりも、技術や知識っていう言葉のほうがしっくりくる。
仕事ができる人は才能があるんじゃなくって、きちんとよい仕事をする技術がある人だと思うし、そういう人は間違いなく仕事に関する豊富な知識を持っている。
つまり長く勤めていればちゃんと誰でも「仕事のできる人」に必ずなれる。
僕は、その深い知識を得る前に会社を辞めてしまうのだけど。

とにかく、会社を辞めたくてしょうがなかった。
しかし、辞めてどうなるわけでもないのでしばらく勤めた
給料は安かったけれど、実家だったしとにかく100万貯めようと思った。
100万あればまあ一年は生きていけるし、そこから考えればいいかと。
で、100万溜まったんだけど、どうせやめるなら録音用のMTRを買ってからやめようと思ってそこから二ヵ月はそのために働いた。その二ヵ月はしんどくなかった。
目的があればつらいこともぜんぜん苦にならず我慢できた。
これも後々生きてくる大きな発見だった。

まあそんなわけで120万円溜まった。
さあ辞めよう!辞める時が来た!と思った。

しかし会社を辞めるのはそんなに簡単ではなかった。
なにより自分にきちんと覚悟がなかった。
これまでの人生はある程度流れに沿ってやってきた。
小学校に入り、中学校に入り、高校を卒業して浪人して大学に入った。
そしてその流れで新卒生として就活して就職した。
大多数が通るであろう大きな流れに流されてここにたどり着いて、
今僕がやろうとしていることは「会社をやめてミュージシャンになる!」って事だった。
いくらなんでもいきなり少数派過ぎるだろ、というか、まあほぼ成功しないであろうギャンブルに人生を賭けて挑戦するみたいなことだった。
収入がなくなって餓死するかもしれないと思った。
京都の地下道に寝ている仕事のない人たちを見ても、もう他人事だとは思えなかった。
自分は今から人生の王道をドロップアウトして、餓死するかもしれない道を選ぶ。
その恐怖に耐えられなかった。
自由で責任のない場所にいたい思っていたはずなのに、
会社を辞める方が不自由で「生き延びる」ということに対して責任がずっと重くなっていく気がした。

ある日、経理に入った同期が声をかけてきた。
「ねえ加藤君、これ見てよ」
みたら社員全員のボーナスの額が書かれた書類だった。
「上司に頼まれて銀行に行ったらこれが渡されて。すごくない?」と。
その杜撰さにも相当驚いたが、なにより驚いたのは神様みたいに扱われている60歳くらいの部長のボーナスの額だった。信じがたい額だった。
マジかと思った。
今から40年働いてもボーナスってこれくらいにしかならねえのか、と。
家なんかもう買えないし、人生を変える一撃なんてもう一生撃てないのだと思った。
ずっとこの会社で嫌だなあと思いながら働いて、40年たってもボーナスはこの程度だ。
こんなところにいてはいけないと思った。
ここでは蝕まれてしまう。
もう辞めよう。
餓死する覚悟があれば何だってできるさ!

酔っぱらった勢いで母に伝えると意外とあっさり納得してくれて、
その勢いでまた酔っぱらって上司に報告して辞めることになった。

今から思えば、その会社は少しも悪い会社ではなかった。
みんな仲良かったし、誠実な会社だった。
理不尽な決定が上から降ってくることはあったけれど、ちゃんと親身になって面倒見てくれるセンパイはいたし、コミュニケーションはちゃんと取られてていたし、僕が会社を辞めた後も社員の人がライブを見に来てくれたり、フリーペーパーを作るときにものすごく安く印刷してくれたりした。

結局僕はその会社に入社して1年半でやめるのだけど、この時の経験はその後ものすごく役に立った。
この時のつらかった時間はまったくもって無駄ではなかった。というよりこの時間があったからこそ、その後の物語が続いていった。
もし、もっと楽しい会社に入っていたら、僕の人生はまったく変わったものになっていただろう。
なにより、印刷の知識をここで得たことが、その後ものすごく役に立つのだけど、それはまた別の話。

次回はいよいよ暗黒ニート編だ。
思い出すのもしんどい時代です。


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