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価値判断の時代へ:未来の自分は、自分だろうか

これまでのいくつかの記事で、人生や自己認識について考えてきました。

その中で、私は自分の意志で自分の人生を変更可能であり、将来を見通し視野を広げて良く考え、意思決定を重ねていくことを、ある種の推奨事項のように記してきました。

その考え方を軸として維持しつつも、より複眼的に考える必要があるという反省を元に、この記事では運命決定論や自己認識の範囲について、考えていきます。そして、個々人の考え方が社会に影響を及ぼす点について議論をしていきます。そして、最後に、価値判断の時代という話題で結びます。

■意志主義の視点

人生を自分の意志で方向付けたり、ある程度の調整やチャレンジが可能であることを理解すると、しっかりと考えて自分の意志で選択をしていくことが重要だという話になります。

この視点では、短期的な視点や狭い視野で物事を考えるのではなく、将来を見通し、自分だけでなく広く周囲の人たちとの関係についても考える必要があります。そして、そういう視野や考え方が今難しいのであれば、それを改善するための工夫や成長をどのようにすれば良いかを考える事も必要です。そこにも、自分自身の意志決定が必要になります。

このため、人生における意志決定が重要と私は考えており、社会も個々人の意志決定を阻害せず、むしろサポートする方向に向かうことが理想的なのだろうと、私は考えてきました。これを意志主義と呼ぶことにしています。

■運命決定論の有用性への気づき

一方で、これらの考えを深めつつ、これとは異なる考え方についても理解を深めたいと考えていました。その中で、以前の記事でも取り上げた私にとって新しい視点は、運命決定論の価値です。運命決定論は、物理学的な考え方の派生だと思いますが、全ての物事は予め全て決まっているという考え方です。私たちが考える事も迷う事も、その結果どういった意志決定を行うのかも、全て惑星の軌道のように予め決まっている事だという視点です。

このため自由意志は実は存在しておらず、私たちはそれを存在しているかのように思っているにすぎないというのです。私はプラグマティストなので、例えそれが真理だとしても、それが個人の人生や社会にとって有用な考え方かどうかに着目しています。運命決定論は、自由意志で自分の将来や周囲との関係を考える気力を奪うため、有用ではないと考えていました。

しかし、運命は既に決定していると考える事で気持ちが楽になる、という人がいるという意見があることを知る機会がありました。それを知って、なるほどと感心しました。運命決定論も、有用なのです。

それ以降、意志主義は私にとっては引き続き理想的なものではありますが、それを全ての人に、全ての状況で主張することには害があるという気づきを得られました。今は、意志主義的な考え方ができる人やその余裕のある状況と、その考え方が難しい状況にある人ということに、きちんと向き合う必要があるのだという考えにシフトしています。

■自己の範囲の認識

こうしたことを考えている中で、最近、自己認識の範囲について考えています。意志主義の考え方は、未来の自分を明確に自己認識しているという前提に立っています。つまり、明日の自分、一週間後の自分、1年後の自分、10年後の自分は、全て、自分だという認識です。

未来の自分が自分自身であることは、ほとんどの人の意識的な理解の上では、当たり前の事になっていると思います。しかし、無意識的な、あるいは深い潜在的な意識として、どこまでこの自己認識を持っているかと考えてみると、この理解は疑わしいのではないかと思えてきます。

頭では未来の自分も自分であるという事が分かっていながら、それを実感としては感じていない人も多いのではないか、という事です。

未来の自分には、直接には神経がつながっていません。髪の毛や爪のようなものかもしれません。自分であると認識しながらも、切り離しても痛みを感じることが無いのです。

■未来からの電話

目の前で事故や災害が起こって大きな被害を被りそうになれば、誰しもが慌てて、何とかしようとします。しかし、事故が起きないように気を付けておくこと、あるいは災害の起きた時の事に備えておくこと、など、日ごろからできることはあります。もし、目の前で事故や災害が起きた時に、過去の自分に電話を掛けることができるとしたら、誰しも力いっぱい、過去の自分に事故の予防や災害の対策にもっと真剣に取り組むように主張するでしょう。

しかし、その未来が起きるまで、私たちはその可能性があると知りながら、未来からの電話よりも強い気持ちで予防や対策を立てることは難しいものです。それでも慎重な性格の人は、ある程度の段階までは対策をしておくでしょうし、人によっては全くそうした事を行わないでしょう。

これが、未来に対する自己認識にも直結します。健康、人間関係、学習、趣味など、様々な事を私たちは今、選択することができます。その選択が、未来の自分からの電話を受けたかのようにできるか、全くそれを無視して決めてしまうか、それは人によりまちまちです。

実際には未来からの電話が掛かってくることはありませんから、現在の自分が、未来の自分の事をどれだけ現在の自己と同じように捉えることができるか、という点に掛かっています。そして、私自身を含め、ほとんどの人は、濃淡はありますが、遠い未来の自分のことを、現在の自分ほどには、自己だとは感じられないのです。

■未来の自己認識の可能性と必要性

未来の自分を、どこまで自己だと感じる事が出来るか、あるいはそう感じるべきか、という点は、とても難しい問題です。既に自分自身だと感じている人に対しては、自分自身が苦しみから避け、より良い人生となるように、意志主義的な発想で、視野を広げて将来を見越した上で意志決定を重ねることの重要性を訴える意味があります。

しかし、そもそも未来の自分を、自己として感じていない人には、意志主義は空虚です。そうした人にとって、未来の自分は、あたかも仮想世界のアバターのようなものです。そのアバターには自分自身はリンクしていますが、実感として自分自身ではないのです。そうした人に、仮想世界のアバターのために、今を我慢したり努力や工夫をしたほうが良いと主張しても、議論は空回りするだけでしょう。

■自己認識の範囲にまつわる困難性

難しい点は、未来の自分を自己認識できるかどうかは、本人の意志でどうにかなるものなのかが良く分からない点です。しかも、未来の自分を自己認識すべきという考え方は、そもそも未来の自分のためです。このため、未来の自分を自己と認識する必要性を、本人は感じていませんので、真剣に取り組むことは困難です。

もう一つこの議論の難しい点は、そもそも未来の自分を自己として認識することの是非です。今の自分も重要ですので、あまり未来の自分にばかり目を向けることも、正しいことだとは思えません。未来の自分ばかり優先していたら、どの時点においても現在の自分が犠牲になってしまいます。現在の自分と未来の自分の両方を自己認識しつつ、バランスを取る事が求められるわけです。

難しい点は、どのバランスが最適かは、分からないという事です。このため、ある人のバランスが悪いと感じられても、それが正しいと主張することは難しくなります。私の方が、未来の自分に偏り過ぎだと言われたら、反論する術はありません。

■自己認識の自由と社会利益のトレードオフ

さらにこの議論が複雑なのは、社会的な問題が関与してくることです。未来の自己を軽視する人が多くいる社会は、その社会の未来自体が軽視されてしまうのです。このため、本人によっての未来の自己認識のバランスの最適点と、社会にとっての最適点は異なりますし、できれば、多くの人が同じくらいのバランスを持つ方が社会を運営しやすくなるという考え方もあり得るでしょう。

ここに、社会を中心に見た場合と、個人を中心に見た場合の、未来の自己認識問題のトレードオフが発生します。このように、社会的な観点が加わる事で、この議論はより複雑なものになります。

未来の自己認識が個人の範囲に留まっている限り、個人の自由や思想の多様性の観点、あるいは現実的な個々人の自己認識能力の差異や限界を背景に、特に他人がとやかく言う問題ではないと切り捨てることは簡単です。

未来のことを考えないことで、その人が未来において何かネガティブな状態になろうとも、それはその人の責任という事ができるでしょうし、実際問題、その人が責任を引き受けることになります。

しかし、密接な関係を持つ周囲の人間は、その個人の未来の影響を受けてしまいます。もし影響が自動的に周囲に及んでしまうようなトラブルを起こしてしまうと、人間関係が薄くとも影響を受けてしまいます。

■広範な問題

ローカルなコミュニティだけのことではありません。環境問題やリスクを伴う技術開発の分野では、未来の安全より短期的な利益や名誉や好奇心や探求心を優先されてしまうと、社会全体の未来に広範に影響を及ぼします。

特に技術についてのリスクについては、深刻だと私は捉えています。現在の先端技術にまつわる状況は、あまりに未来の社会との感覚的な接続性に欠けています。未来からの電話が掛かってこないことを良いことに、思い込みや楽観論が支配し、真剣さと真摯さのない議論が横行しています。

ここには、未来社会も、私たちの社会であるという認識の感覚的な欠如があります。個人の場合と同じく、社会も、頭の中では未来社会も自分たちの社会だという理解が出来ても、感覚的には断絶しているのです。未来社会は、私たちにとっては、いつまでもサイエンスフィクションです。

■感覚を越えた理性

未来の自分、未来の社会を、自己認識することは、感覚に頼っていては困難です。ある種の悟りのような状態にまで精神を高めれば、感覚的に未来の自分と神経がつながっているように感じられるのかもしれません。

しかし、そのような境地に至る事は多くの人には困難ですし、まして社会全体では不可能でしょう。

しかし、感覚的につながっていないからという理由で、諦めて良い問題と、そうでない問題があります。社会に広く影響を及ぼすような問題、つまり環境問題やリスクの高い技術の問題についてが、その代表格です。

未来と感覚的なつながりを持てず、しかし、諦めて良いわけではない問題の場合、後は頼りにできるのは理性だけでしょう。

■伝統的な科学の限界

ただし、理性と言っても伝統的な科学ではありません。伝統的な科学はエビデンスを必要とし、エビデンスが無ければどちらとも言えないという立場を取ってしまいます。しかし、環境の問題やリスクのある技術の問題は、事前にエビデンスを得ることはできず、エビデンスが得られたときには手遅れになっている可能性があります。

シミュレーションや類似例からの類推という手法もありますが、エビデンスとしては弱い上に、故意にせよ手違いや理解不足にせよ、モデルや初期条件次第で、結果が大きく左右されてしまいます。そこにある種の意志や恣意性が入り込むと科学的な議論は困難です。その上、弱いエビデンスで専門家が議論をすると、素人からはどちらの予測がもっともらしいのか、全く客観的な判断ができません。そこで、専門家の態度や人柄や過去の実績といった、議論とは無関係なもので評価をしてしまいます。

このように、未来の問題に伝統的な科学は、期待したような実効性を持ちません。

このため、科学ではない理性を使うことでしか、未来の大きな問題に対応することはできません。

■価値を判断する理性

科学ではない理性とは、端的に言えば、価値の判断です。つまり、未知ではあるけれども、リスクの可能性が伺われる場合に、そのリスクよりも別の価値を取るのか、リスクを回避することで守る事が出来るものの価値を取るのか、という判断です。

これは、環境のメカニズムの理解や、リスクのある技術の詳細についての理解を必要としません。このため、専門家でなくても判断することができる事です。

赤の道を選べば、直近は何かを我慢する必要が無いが予測の振り幅がどうなるかが分からない未来があります。そして、青の道を選べば、何かを我慢し続ける必要がありますが、振れ幅は小さくなるという未来があります。その時に、私たち社会全体は、赤の道と青の道のどちらを選ぶのかという話です。

専門家でも意見が割れている未来を予測しようとしても無駄です。何か断定的な事を言っている人がいれば、その人は予言者です。私は予言者の存在を信じません。そのような状況でも、上に示した赤の道と青の道がある事は、常にはっきりとしています。

私は、青の道に進むことが理に適っていると考えます。赤の道は、運が良ければ何も起きないかもしれませんが、最悪の場合、本当に最悪の未来が訪れるのです。その本人一人だけの話であれば別ですが、社会全体を巻き込んでそのギャンブルをする理由などない、というのが私の考えです。

■さいごに

やや長くなってしまいましたが、未来の自分を自己として認識できるのかどうかについて、個人の視点、社会の視点から考えてきました。終盤では、環境問題やリスクのある技術の問題といった現在的な問題に対する社会の反応についての考察をしました。

この議論から、未来の自分や未来の社会の事を考える事は、当たり前のようでいて、当たり前の事ではないことが浮き彫りになりました。そして、個人のレベルにおいても社会のレベルにおいても、未来のことを実感を持って重視する事は困難であることも分かりました。

そして、それを乗り越えるためには、理性による価値判断しかないというのが私の結論です。

推論能力や情報処理能力では、やがて人間はAIに越えられるでしょう。しかし、AIがどんなに賢くなって推論や情報処理はAIに頼るような時代になっても、価値判断という理性は主体の問題です。私という主体が、何が好きか、何を美しいと思うか、どの道を進みたいか、というのは、私という主体にしか決めることができません。AIもそのAI自身の好みや意志決定は行えるかもしれませんが、それはそのAIの好みであって、主体が異なる私の好みや意志決定ではありません。私の代わりに、AIが何かを価値判断をしても、私には意味がありません。AIが何かを好きになるべきだという答えのようなものを提示したとして、私がそれを好きになるわけではありません。

様々な予測が困難な問題に対する価値判断が必要だという点と、AIがどんなに賢くなっても私たち自身の価値判断は自分で行うしかないという点の2つの観点から、これからは価値判断の時代になると私は考えています。そこでは、やはり意志主義が軸になるのだろうと思うのです。

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