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現代社会のジレンマ:能力の個人差と社会環境の相対性

道徳と経済は、個人の能力と社会環境に基づいています。個人の能力は人によってばらつきがあり、社会環境は時代や地域によって変化します。

従って、道徳や経済には、その社会環境や個人の能力との相対的な関係がある事になります。

この記事では、その観点から道徳と経済を見つめていきます。そこから道徳と経済の進歩の戦略的メカニズムを考えていくと、現代社会のキーワードになっている分断には、社会の進歩との間のジレンマがある事が見えてきます。

■道徳と経済の能力の個人差

IQやEQなどの数値化は好きではないのですが、その良し悪しは別として、心の能力や知的能力に個人差があるのは、残念ながら事実です。

私は、人間関係を良好にし、自分自身が生きやすくなるという意味で、いわゆる道徳的に行動する方が得策だと考えています。

また、物質的に豊かで、様々な社会制度が整っている国に住んでいる私は、高望みをせず、人と比べることをしなければ、健康で文化的な最低限度の生活以上の、十分に豊かな生活が送れるだろうと思って生きてきました。

そこに、私の知的能力や心の能力の恩恵もある事は確かでしょう。私は体力や運動能力は学校のクラスでも最下位レベルでしたので、肉体の能力で評価される時代や場所に生まれなくて良かったと思っています。

その裏返しとして想像すると、心の能力や知的能力の個人差により、生きづらさを感じざるを得なかったり、豊かさの獲得に困難が生じてしまう人も、いるはずです。

もちろん、心の能力や知的能力が、自分自身の生きやすさや経済的な豊かさの全てを決定するわけではありません。そこには運や本人の選択などの要素も加味されるはずです。とは言え、心の能力や知的能力の影響も、無視することはできないでしょう。

■相対的な社会の道徳環境

また、個人差だけでなく、社会環境にも目を向けることが重要です。

もしも、ホッブスが描いたような、自然状態としての闘争的な社会、いわゆる弱肉強食の社会の中に放り込まれたとしたら、現代の私たちの道徳に従って行動することは命取りでしょう。

そこでは、道徳の効用を期待することはできず、常にリアリズムに従って誰も信頼せずに自分の能力だけに頼るしかありません。機会があれば相手を打ち負かし、騙し、利用する事すら必要になります。なぜなら、相手もそのように考えているためです。

反対に、法が整備され治安が維持されている現代の社会においては、道徳的な行動を取ることが合理的です。

一部の法は道徳に強く結びついており、法を犯せば大きなペナルティを受けることになります。法を侵害しなくても誰かに被害を与えれば、民事的に賠償を求められるでしょう。そもそも、常に人を疑い、隙があれば優位な位置を確保しようとすることばかりを目指していると、自分自身も周囲も苦しめるだけになってしまうかもしれません。

つまり、道徳的な考え方や行動が有効になるためには、その前提として社会環境の道徳レベルが必要とされるという事です。そして、社会環境の道徳レベルが高ければ、それに沿った道徳的な考え方や行動が、合理的になります。

その意味で、心の能力というのは、どんな状況下でも人に優しくみんな仲良くする、という能力ではないのだろうと考えています。心の能力は、社会環境の道徳のレベルを感知し、適切な道徳的判断ができる柔軟性を示す能力であろうと考えています。

■社会の道徳環境の不均質さ

同じ社会の中に住んでいても、各人が感じている社会の道徳レベルには差があると思います。これは感知能力の個人差も含まれますが、そもそも、現実の社会の中でも、社会の道徳環境は均質ではないためです。

法とその遵守の仕組みの強度によって、社会の道徳レベルのベースラインは提供されます。一方で、社会環境の道徳のレベルには、自己再生産の面があります。

社会道徳を信頼している人が多く集まるところでは一定以上のレベルが維持されます。一方で、社会道徳を疑っている人が多ければ、そのレベルは低下していくことになります。

これが、社会の道徳環境を不均質にします。

現実の社会の中では、この不均質を理解することも重要です。人生戦略として、自分の基準に合った社会環境に身を置くことができるように工夫することが、多くの人にとって賢明な判断でしょう。

■社会の経済環境

次に、経済環境にも目を向けます。

社会全体が物質的に豊かで、かつ、その豊かさを還元する社会福祉の仕組みが整っていれば、例え個人の経済的な能力が高くないとしても、一定程度の物質的な豊かさを享受できるでしょう。

少なくとも絶対的な豊かさの指標で見れば、経済的にも制度的にも先進的な国にいるという時点で、既に私は有利な立場です。同じ能力を持っていたとしても、物質的な豊かさが低い国に生まれていれば、決して同じ豊かさを獲得することは無かったでしょう。

このように、道徳と同じように、社会の豊かさのレベルが、個人の豊かさへ影響しています。

また、道徳と同じように、社会の経済的な環境にも不均質さは見られます。同じ社会の中でも、できるだけ豊かな環境に身を置く方が、豊かさを獲得しやすくなります。

この事を示す例は、都会に住む家族が子供の進学先を選ぶ時の考え方に端的に現れます。通常、成績が良い子供が通う学校の方が、道徳面の環境リスクが低く、将来の経済環境が良いところに向かうことができる可能性が高くなると考えます。

■自己責任の相対性

ここまで、心の能力や知的能力には個人差がある事、そして、社会の道徳環境と経済環境のレベルは社会によっても、社会内のコミュニティによっても差がある事を述べてきました。

社会の道徳環境と経済環境のレベルによって、個人に求められる能力のハードルは決まってきます。

どんな社会でも、能力がハードルを越えていない人は必ず存在するはずです。そうした人のために、社会にはセーフティネットが必要になります。また、伸ばすことができる能力については、それを伸ばすための支援やトレーニングなども社会が提供することが望ましいでしょう。

一方で、個人の心の能力や知的能力がそのハードルを越えているなら、その個人は、基本的には自己責任を負います。

能力がハードルを越えているということは、その能力を駆使すれば望ましい選択ができることを意味します。どんなに能力があっても、選択を誤れば、機会を逃し何かを失うのは当然です。このため、その能力をきちんと生かし、必要があれば伸ばし、そして正しい選択をする努力が求められるのです。

もちろん、選択だけではなく運の要素もあります。能力があっても不運に見舞われた人のためにも、セーフティネットは必要です。

本来、ハードルを越えていても能力を発揮できない状況は、予防すべきです。セーフティネットで救う以前の話として、こうした人が自分の人生と向き合うことができるようにする社会的なサポートが、重要なのだろうと思います。

また、道徳と経済に対して個人が必要とする能力が低くなるような取り組みが社会には必要でしょう。そのためには、心の面でも、経済の面でも、余裕がある人たちの協力が必要になります。

個人の選択を尊重することは大切ですが、だからと言って即、自己責任論に入る必要があるわけではありません。ここで示したように、社会ができる事や成すべきことはたくさんあるためです。

■道徳的言説、賢く生きる方法論

個人の能力差や社会環境のレベルや不均質さの視点から考えると、道徳的に正しい姿勢を促す言説や、賢く生きる方法論のような話には、個人差についての理解や配慮が必要です。

ある道徳的な行為や考え方を推奨する時、受け手の中には、それを実践できないような社会的道徳レベルの環境にあるかもしれませんし、心の能力がハードルを越えていない可能性もあります。その状況に対して、提案する道徳が及ばなければ、それを非難するのは酷でしょう。

経済的な行為について、賢い振る舞い方を伝授するような有名人の発言は人気があります。しかし、それを当たり前にできる人と、困難な人がいて当然です。全員がそれを実践しても価値があるノウハウは道徳にはあり得ますが、経済の世界では少ないように思えます。

全員が賢いやり方をすれば、経済的には全体として差がなくなります。誰かが実践し、誰かが実践しないから、そのノウハウには意味があるのです。経済の競争面は、そもそも椅子取りゲームです。ゲームの仕組み上、必ず椅子に座れない人がいる場合、その人を愚かだと指摘する意味がどれほどあるでしょう。その人が仮に賢い行動を取れば、別の誰かが椅子に座れなくなるだけです。

そうした視点を持って、きちんと社会の複雑さを把握するように努めていくことが、より多くの人にとって、住みやすい社会を作るための鍵だと考えています。

■道徳の戦略

心の能力の個人差は、社会の道徳環境のレベルによって埋めていくことが可能だと考えられます。また、参加している個人の道徳規範がフィードバックされて、社会の道徳環境のレベルは変化するはずです。そして、道徳には、全員が実践しても価値があるノウハウが存在するという点も重要です。

これらを前提にすると、次のような道徳の戦略を立てることができます。

まず、社会の全員が実践しても価値があるノウハウを見つけてリストアップしていきます。カントが言う定言命法です。

次に、それを心の能力が高い人が実践します。心の能力が高い人は、社会環境の道徳レベルを感知し、それに合わせた道徳的実践ができる人です。

ここで、今の社会環境の道徳レベルよりも少し高いレベルの道徳的実践を行うことがポイントです。あまりにかけ離れていると、実践は難しく、最初に実践する人たちも苦労しますが、後続の人たちがついて来られなくなります。道徳レベルが低い環境で、いきなり聖人や仏様のような実践を強要することは戦略的ではありません。

このステップにより、社会環境の道徳レベルは部分的に少し上昇します。心の能力のトップ集団が作り出したこの環境の変化を利用して、心の能力の中間層にも、その道徳の実践を促します。これがスムースに進めば、社会環境の道徳レベルが全体的に底上げされます。

これにより、心の能力の後続の層が実践できるようになる可能性はありますが、限界もあるでしょう。基本的で容易な道徳の実践はほとんどの人が実践可能ですが、段階が上がると難しくなります。そうした状況に対して社会的な受容度を上げることは、社会環境の道徳レベルが高くなった社会が、別途考えなければならない課題です。

この段階まで進行すれば、心の能力のトップ集団が、次のレベルの道徳的実践を開始することができます。こうして段階的に、社会の道徳レベルの底上げをしていくわけです。

これは社会全体だけでなく、社会の中の不均質さの中においても実践可能な戦略です。ある集団の道徳レベルを戦略的に底上げするのであれば、その集団に心の能力の高いメンバーを何割か含める必要があります。その上で、その集団内で、先ほどのステップに沿って道徳の文化を段階的に育んでゆくのです。

■社会環境のレベルの高まり

先ほどの道徳の戦略のステップを眺めてみると、経済の戦略と類似していることが分かります。

最初に能力の高い人が先頭を切って進み、それによって環境が整備されると中間層がフォローし、最終的に能力的な後続集団も巻き込んでいきます。これを繰り返すことで、段階的に経済や道徳の社会環境のレベルが向上していくというモデルです。

そして、ある程度、経済的な豊かさや道徳的な豊かさが進行すると、次のレベルに進もうとした時に、新たな問題が生じる点も似ています。

社会環境のレベルが高まると、能力の高い先頭集団には達成できても、中間層は苦労し、後続集団には越えられないという状況が生まれます。

そうなると、社会として後続集団を受容する仕組みが必要になりますが、あまりにそれを多く求められると、先頭集団や中間層に不満が出ます。そして、後続集団に対して能力の向上を求める社会的圧力が高まる事になります。ここに社会のジレンマと分断が芽生えます。

さらに高度化が進むと、先頭集団だけが進んでしまい、中間層以下がついていけないという状況にも進展します。これにより、先頭集団と中間層の間にもジレンマと分断が生じ、ますます社会は複雑な状況に陥る事になります。

これは、経済においても、道徳においても、人類社会が体験したことのない領域であり、このジレンマと分断は、今日的な新しい問題として捉える必要があります。経済や道徳のレベルが初期段階であった頃の理論や理屈は下地としては重要ですが、その上にさらに新しい問題解決の仕組みが必要となるのです。

■さいごに:社会と個人、それぞれの視点

私は、子供の頃に見た三銃士のアニメの、「一人は皆のために、皆は一人のために」という合言葉が気に入っています。社会は、まさにこの原則が理想であろうとすら思っています。

状況が許す限り社会は個人を尊重し、余裕がある限り個人は社会に配慮する。

私には、それがある意味で当たり前だと思えます。小さなコミュニティであれば、自然とそうした雰囲気が醸成されるでしょう。

個人主義か全体主義かという議論がよくあります。社会と個人が、両方とも同じ視点であるという前提で考え始めていると、議論が収拾できなくて当然です。

社会の規範は法律で規定され、日本は憲法で個人の尊厳、すなわち基本的な人権の精神が謳われています。一方で、個人の規範は文化に依存し、日本には和の文化、協調や世間体を気にする文化があります。これは、法の個人主義とのバランスを取る良い事例とみなすことができると考えています。

もちろん、それが行き過ぎることで悪い面が出てくることも少なくありませんから、改善の余地は多分にあると感じています。ただ、基本的には、比較的望ましい文化のインフラを持っていると考えています。

そして、定規で測ったような平等でなく、個別の社会環境の不均質さや個人の能力や状況へ配慮した公正という考え方を重視するべきです。社会の規範の観点ではロールズの無知のヴェールの考え方であり、個人の規範としては日本語の人情の観点です。

権利や機会が平等に与えられてもなお、運や能力による埋めがたい差に着目して特別な支援をして公正さを保つことは、豊かな社会の基本条件と言えるでしょう。


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