苦労できない才能

 ひと月以上も過ぎて今さら何を、という話だが、6月が誕生日だった。
 17歳と192ヶ月。もとい33歳。家のアパートの周りをぐるぐる回って遊んでた頃からすると、30代以上なんて自分がどんな生物となっているか全く想像できていなかったし、それどころか生きてるかどうかもよくわかってなかったのに、そこからもう3年目を迎えてしまったことにありがたいやら愕然とするやら。
 もう少し面白みある人間になるなり、実のある生活を送っているなりできてりゃ、あのころの私にも示しがつくってもんだけど、ここまでできてないもんかしらとは思う。ベタな例え話だけど、タイムスリップして今の私の姿を見たら、子供の私はひっくり返って生きる希望をなくすんじゃないかしら。

 とはいえ、「こうしたかったなぁ」と思うことが全くないわけではないが、子供のころに戻ってやり直したいと思ったことはほとんどない。心を砕いて無駄に気を遣う性分だったから、あれをもう一度やれと言われたらちょっとつらい。そして結局は母親にさえ「あんた本当に昔から自由に生きてるわよね」と言われるほど気付かれないもんなんだから、徒労以外の何者でもない。あほだよなぁ私。でも一生懸命だった。

 ここまで話をしてふと思い出したが、私はどうやら深刻に思い悩んだり、必死に事を行っていたり、苦労してる面が人から見られにくい性質のようだ。ストレスを抱えまくって気持ちは心底ぼろぼろになっていても、まだ余裕そうに見えていろんなことを振られたり、知らない人と話すのが苦手で泡吹いて倒れそうなくらい緊張していても、「なんだかんだ言っても調子よくできてんじゃん」と言われてまた人と話す機会を増やされてしまったり。ひどいときは怒られてものすごく心から反省して顔にも出してるはずなのに、「なんでそんな涼しい顔してるんだ!」と言われたり。
 全身余すところなく苦労している姿や悲しむ姿を押し出しているのに、全くと言っていいほど伝わらないのだ。これで仕事ができてりゃいいんだろうけど、特別できてるわけでなし。

 苦労を見せる才能が絶望的にないのだ。下手したら泥水すするような生活になったって、「え?やりたくてやってるんじゃないの?」と言われるかもしれない。
 そう、そしてそれは逆に、簡単にハッピーに見せられる才能があるのかもしれない。自分の心の中がハッピーとはだいぶ乖離した状態だったとしても。乖離しているときはちょっとしんどいけれど、ハッピーそうに見せられたおかげで、人やものが集まってくれたことがあった。幸せを感じることで幸せを引き寄せる、とは少し違う気もするけれど、絶望的に運が悪いことも少なかったような気がする。ちょっとしたドジやアンラッキーはあれど。

 しんどいことをわかってもらえず、相当説得しないといけないことは不便だけど、悪い面を嘆き続けてもしょうがない。いや、正直改善してほしいけど。とはいえ全面に出してもだめだったことをごちゃごちゃ言う暇があるならば、それを生かす方向で考えた方が建設的だろう。「喜びのエネルギーの中にいる状態だと横断歩道ですれ違っただけの人にも影響を与える」という人もいるんだから、きっと私のへらへらハッピー感だって多少は影響がある、はず。
 自分を適切に受容し、安心できたことで生まれるエネルギーは、自分自身にもいい影響を与える。過去の出来事の印象を変えたり、未来へ向かうパワーになったり。私が感じてきた後悔や燻りすぎた願望も、これから少しずつでも丁寧に拾い集めて、解き放っていけたらいいかな、と思う。子供のころに遠慮してた自分の気持ちを、成仏させるように。

 ……あれ、私誕生日にもらったプレゼントの話しようとしてこの画面開いたのに、脱線しすぎじゃない?精神的なコンプレックスを、ええ感じにまとめただけやんけ。

 中学受験して引っ越しして新しい土地で慣れない生活が始まった13歳、東日本大震災などで気持ちがぷっつり切れて全てを手放したいと思った23歳(実際行動したのは24歳になる直前だったけど)。転換点が起きていそうな、3の歳。できたらいい転換点を起こしたいものです。ただでさえ女の30代、厄年だらけなんだからさ。

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